いるのだ。
 ベルリンでスカラ座のカルメンを見たとき、スカラとも云われるものが、あんまり群集をぞんざいに扱っているのにおどろいた。合唱こそしているが群集の男女の気分もバラバラ、眼のつけどころもバラバラ、いかにも、はい、わたしの役割はこうして歌うだけです、という風だった。
 歌舞伎の群集は筋の説明の上にだけ役立てられ、所謂「土地の者、数人」がガヤガヤで、群集の力として迫って来るものがない。民衆の運命は計算されていない。
 革命によって洗い出されたソヴェトの演劇は、表現の上で、過去の「かたまり合った人間たち・群集」を明瞭に「意志する民衆の集団」に置きかえた。
「ゴトブ」のオペラでもバレーでも同じように合唱団=集団の統制を、こういう自主性をもって扱われることだと思っていたのだ。
「蹴球選手《フットボーリスト》」は、反対のことを我々に知らせた。「ゴトブ」の幹部連は、ブルジョア舞台芸術の個人主義、個人偏重からなかなかぬけられないでいることを。「ゴトブ」には、クリーゲルや、ゲリツェル・ソービノフ等々先輩の「人民芸術家」たちの下に、なったばかりの花形、或はなろうとしている花形が多勢いる。彼女、彼が機会あるごとに過去のバレーやオペラの形式を利用して「自分」を、見物に印象づけようとする熱心さがつよい。(その結果、ここの見物がモスクワの数多い劇場の観客の中で一番、個人的にヒイキをもっている。フットボーリストが、球を抱えて舞台へとび出して来ると、いきなり声がかかる。――スモーリツォフ! スモーリツォフ!)
「蹴球選手《フットボーリスト》」において、「ゴトブ」の連中の爪先で踊る技術からぬけ出られなかったと同時に、このプリマドンナ・ソロイストの個人主義を清算しきれなかった。第三幕目大詰は、ソヴェトの生産の拡大、社会主義の前進、ウラー! ソヴェト市民の日常は一九二九年末、新しい光りで照らされている。それに対する鼓舞の熱い燃え輝く力で観衆を一かたまりに高揚すべき大切な場面だった。それにもかかわらず彼等はそれをどう表現したか? 必要とは全然逆に表現した。――彼等は考えた。大詰だ。ここで、えーと、誰と誰、誰を踊らしてやらなければなるまい。だが、滝のザンザと落ちる前で銀色のヴェールをふって、水の精が踊り、数人の火の精がとびはねるだけのこととなった。自然の可能性を人間の幸福に役立てようとする巨大な意志と
前へ 次へ
全28ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング