じめる。銀色の女がヒラヒラととび出して来る。独り舞踊をやる。――これがソヴェトの「電化」であることを理解しなければならぬ。
 パッと照明がかわると、滝は忽ち燃ゆる焔の輝きだ。焔色の装をした男がそこいら中をとびまわる。
「石油だ! 石油だ!」見物席で謎をといたという風にそういう声がした。
 鉄、石炭。五六人の男の踊り手が、黒い装で、ちょんびり人体力学《ビオメカニズム》の真似をやる。
 が、諸君、おどろくな。この最後の一幕を通じて、凡そ二百人ばかりの、白いシャツを着た大群集が(プログラムによればスポーツ青年たちだ)順ぐり高さの違う台の上にキレイに立ち並ばせられたまま、滝が落ちようが、石油が燃えようが、ろくに足一つ動かさず、終に幕という想像外の事実があるのだ。きっとこれはアメリカの大レヴューの舞台が裸娘のダンピングをする真似だろう。
 一七七六年以来の第一国立オペラ舞踊劇場だ。今更「青襯衣《シーニャヤ・ブルーザ》」劇団やメイエルホリドの真似でもない。独特の訓練と技術とが活かされなければならない。
 しかし、この「蹴球選手《フットボーリスト》」の舞台に現れた破綻は「ゴトブ」にとって、厳密に自己批判されなければならないものだ。二百人もの「青年」を立ちん坊にだけ、背景の代りにだけつかったことは、舞台監督の上手下手をこえて社会主義の社会での芸術というものの本質についての認識不足を示している。こけおどしの舞台効果のために、人間のエネルギーの浪費が平気でされているとは「ゴトブ」の舞台認識の中にブルジョア劇団の因習がのこっている証明だということを、彼等は理解しているだろうか。テーマに対して群集の有機的な活かしかたこそ、芸術座の「装甲列車」を成功させたのに。
 大体、日本にいるとオペラを見る機会がごく少い。いつもレコードでオペラの音楽の抜萃を聞いているぐらいだから、音楽としての美しさだけをつよく局部的にうちこまれる。ハルビンあたりから来たロシアオペラだって、人々は、高い金をだして聞いた。
 モスクワへ来て、大ものの「ボリス・ゴドノフ」も「サドコ」も「デモン」も舞台から聞くことが出来、バレーもいろいろ観た。そしたら、日本にいたときとは違う考えをオペラやバレーに対してもつようになった。
 概して昔ながらのオペラというものは、既にソヴェトの生活にぴったりした芸術形式ではなくなってしまった、とい
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