わけで、つまり子供のうちから女と一緒に働き、一緒に仕事をするということから先ず根本の感情が出来て居るから非常にはっきりして居る。
 又女性の性の必然というものをソヴェト位保護して居るところはない。
 フランスの様な服装の上でまでの性の誇張、そういうことは勿論、ソヴェトにはない。そのないことはそれで又健康であると思う。
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 女と男は元来咽喉笛の出来工合から違う。又筋肉、骨格皆それぞれ男女違って居る。男は女の特色を気持よく感じ、又女は男の特徴を気持よく感ずる。それが性それ自身のもって居る美である。女の体が柔かくて、丸くって、男の体が角張って骨が多い。それは性の必然的差別と美しさである。
 そこでお互いの肉体がお互いの必然的限度までよく働いて健康を保って居れば十分美はある。
 ソヴェトの若い人間はそういう点で美しい。それだから、資本主義社会のような性の誇張というものがなくなったからと云って美は減少して居ない。
 だからソヴェトに行っても決して美に対して心配する必要はない。それ故非常に朗かで、私が丸三年ソヴェトに居た間に、男と女と仕事の上のひけ目とか区別を感じない。
 常に男が働いて居るところには女が働いている。又女の働いて居るところには常に男が働いて居る。だから男と女がまるで違った分野で違う給料で働いて暮すというようなことは、ソヴェトの若い人間にはそういう社会内に生きる男女の感情を知らない位だと思う。
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 それで恋愛の表現等でも、パリとモスクワと違うところは、例えばパリは引け時間、地下電車の入口に立って見て居ると、女が先に来て改札口で待って居る。すると若い男が来る。互に抱き合って長い間接吻して、女と男と別々の方へ別れて行く、そういう表現をフランス人はする。
 が、ソヴェトの若い人間は往来で接吻するようなことはない。第一そういうものに対する解釈、そういう恋愛技術というものに対する考え方が全然違う。
 ソヴェトでは個人間の恋愛関係は、生産単位として各人を要求して居る社会の前に提出すべき第一の問題でないからそう云う点は考え方が違う。
 仕事の為にどっかへ互に別れて行く。これは当然だ。
 第一そんなに吸い付くということは衛生的でない。口の中には沢山のバチルスをもっているというようなことは子供の時から教えられて居る、そういうスローガンが衛生教育の一つの定規になっている位だ。
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 共産青年団員は握手はしない。ピオニェルも握手しない。それで先ず第一に来ることは、恋愛の自由ということでも、家庭における婦人の地位の向上ということでも、要するに生産関係が変って、女が本当に生産の単位として社会の中に組織をもって現れて来ないうちは、何にも根本にはものにならないということがはっきりする。
 で恋愛は自由というけれども、公事ではないから、自分の私事問題だ。これが社会的に問題となって各自責任があるのは、女のもっている、或は男のもって居る社会人としての責任義務を通して社会一般の問題となって行くだけである。
 恋愛を其の日の事業として暮すというのであったら、それは社会人として第一に排撃される。
 クララ・ツェトキンの書いた「レーニンの想出」に、戦時共産主義時代に若い党員が恋愛の自由ということを感違いしていろいろの誤謬を起したことにレーニンが非常に心配して、今の若いものは恋愛というものは一つの生理的問題に過ぎないということを非常に誤解して、あんなに有望な青年達が娘のスカートを追っかけて行くようではと非常に心配して居た事を書いて居る。
 併しそういう点は今の若い人間はズット進歩して健全になって居り、それだけ社会状態が落付いて来たわけで、これはソヴェトが今再び建設時代に入って居るはっきりした証拠である。
[#地から1字上げ]〔一九三二年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「サラリーマン」
   1932(昭和7)年1月号
※「宮本百合子全集 第十一巻」(新日本出版社、2001年)を参照して、底本の脱字を補いました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年11月30日作成
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