ソヴェトに於ける「恋愛の自由」に就て
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#地から1字上げ]〔一九三二年一月〕
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ソヴェトは恋愛が自由である。
フランスも自由である。
そこでどう違うかということは、資本主義末期の個人主義的に恋が御互を拘束しないということから起って来る恋愛の自由だ。
男が或る女と関係して、嫌になって捨てる。女が妊娠しても男は責任を負わない。
それでも女は訴えるところがない。フランスの恋愛技術は男より数の多すぎる女の経済的必要から進歩して居るかも知れないが、社会的にはそういう風な個人的なものである。
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ソヴェトは恋愛が自由だというが、それは何故かというと、男も女も経済的に独立した社会人であるから、社会人としての責任は各自自分が負うから、そこで自由だということになって来るわけだ。
恋愛はいくら自由だといっても、男が女と関係して姙娠したり、子供を生んだりした時雲隠れしてそれで終れりとしてしまうことは出来ない。
子供の哺育費というものは男の月給の中から職業組合を通して取られる。
若しその男がずるくて女が補助費を貰えない場合は、裁判をして男の親があれば、その親の家から子供哺育費を取ることが出来る。
併し土地には手を触れることは出来ない。何故なれば、土地というものは農業生産の基礎である、一農戸に属するものだから、土地を子供の哺育費に取るということは出来ない。
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勿論ソヴェトでも社会的責任を理解して居る人間ばかりは居ないから、いろいろ間違ったことが沢山ある。
だから自分の女房があっても他に女をもって居る。要するに妾だ。妾をもって居る人もある。
併し形はそうであるけれども、女がそれによって、つまり男によって食わせてもらって居るか或はそれとも合意的に一時的に生産単位として独立して居る女が男とそういう関係を結んで居るかということで随分又社会的の意味は違って来る。
現在の若い共産党青年、共産党女子青年、そういうものの恋愛に対する観念はどうかといえば、戦時共産主義時代は、社会が新しいものを創り、古いものを壊そうとする非常に激越した時代だった。だから恋愛というものに対する考え方も或る点非常に機械的になってしまった。
個人個人の間の恋愛形態が社会にどれだけ連帯責任をもつかということよりはむしろ旧時代の恋愛および結婚生活が絶対のものであるという私有財産制から発生したブルジョア一夫一妻制の宗教的考えを打破するに急であった。
だけれども現在は建設時代に進んで居るから、恋愛、家庭生活、結婚ということが各個人の社会人としての連帯責任に基礎を置いて居るということがはっきりして居る。
だから万一一人の共産党青年が片っ端から女を引っかけてゆくとする。それを恋愛は自由であるからとして放任して置くかというと全然反対である。余り非社会的な行為をする場合には共産党青年団の中で、同志的制裁を加えるか、反省を促される。
女の社会的価値を無視したことをやれば勿論除名もされ得る。けれどもそれだけが第一の問題となって除名されるということはない。
つまりそういうことをするのがその男の社会連帯責任を無視する一つの実例として見られるのだ。
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お互の性的関係は先ず第一に衛生問題であって、性的慾望をいろいろ宗教的に決めてしまったり、そこへ妙な道徳観を拵えたりすることはさっぱり捨てている。
男女が互に好きだということ、それは性慾から発生した感情だという風にはっきり理解して行く。
だから自分の性慾が自分を刺戟して或る人間に対する興味を感じた場合、その対手の社会人としての価値で引きつけられたかどうかという点は切りはなして考える。
その点での誤謬を冒すことは非常に減って居り、その点ははっきりして居る。
フランスでは要するにブルジョア機構内で女が自分の性をどうしたら最も功利的に利用出来るかと考えている。
だからフランスの女権拡張運動[#「運動」は底本では「 」]というものはどういう状態にあるかということの説明になる。
けれどもソヴェトでは男も女もそういう意味のブルジョア的性別は、減っている。
何故かというと、労働において女は男の協力者であり、又家庭生活の中でも第一、小学校から男と女のする仕事が別れるということはない。……学校でくれる弁当を食べると、後の皿を洗ったりいろいろすることは男の子も女の子も混って一緒にする。
それから部屋の掃除も、畑を耕すことも、植物を採取することも一緒にする。托児所の揺籃から共学でそういう点でも気分が自然違う
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