覧会を開いた。ウクライナの木版は非常に独特で、そうして面白いものである。
それからキノも外の芸術と同じように、勿論階級の武器だ。例えば去年の春初めてソヴェトにトーキーが出来た。そのトーキーというものは、私はアメリカのトーキーをベルリンで見たし、またイギリスで見たが、非常に音というものの使い方が慊《あきた》らない。平凡である。ただ唄わせるためにだけに場面としては必要のない場面を何秒間も続ける。そうかと思うと、物が落ちた場面の中で、実際物が落ちると、それと一緒にガタンと音が聞える。ただ説明だけである。昔の下手な活動の弁士が絵でもって男が二階へ上って行くと、「彼は今二階へ上ったのであります」といったのと同じである。アメリカのトーキーは音を概してそういう風に使っている。ソヴェトのトーキーの面白い点は、音というものを全然そういう風な画面と一緒に行く説明ではない。物を立体的に、その感情を表現するために音を使う。それが非常に面白く使ってある。深みがあり、実感は非常に強い。
レーニンの葬式の画、これは記録として撮って置いたものに音をつけたのだが、レーニンという人間が死んだ時に、世界中のプロレタリアートがどんなに感動したかということを音でよく現している。それは何かというと、工場のヒューッという気笛、吹雪が、どんどん降る。旗がはためいている。ヒューッと鳴る気笛。弔砲がドンドンと聞える。非常に効果的な音の使いかただった。
それの一部で五ヵ年計画についての演説、それはモスクワの大劇場で行った。それはそのまま人間と演説が撮されて行くだけである。なかなか面白かった。
ソヴェトのトーキーの製作者はひどくその作品について謙遜である。アメリカのトーキーを見た時にこんな話がある。皆んながっかりしてしまって、到底俺達の技術はアメリカの技術に及ばないといってがっかりしたというけれども、しかし我々みたいに第三者から見ると、勿論アメリカはいい機械はもっているか知らないが、また技術も先に始めたから進んでいるかもしれないが、音と目から来るものとの結び付け工合は、全然ソヴェトのトーキーの方が上である。だからそういうつまり音の扱い方で、ソヴェトのトーキーが将来どういう風に発展するか、日本のようにこれからトーキーが出来る国ではこれが大いに参考になると思う。
映画は、勿論つまらない映画を見たい人間は一人もいない
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