なかったことは、状態を一層混乱させました。
 大小にかかわらずことごとくが私にとっては極抽象的な「問題」の形をとって来ます。感動し、失望し、考えに耽る内なる自己と起った事柄とをしっくり対談させることを知っているようで知らない自分は、考え、考え、頭の上で思索の範囲の拡大を見るのみで、結局内部では実践的に何一つ解決されないということになる。
 或る期間の後、私は、全く人生に対して懐疑的になりました。真実と愛があれば、救われる等という信仰は、消える虹のように見えた。どんな焔でも、傍から水をざぶざぶかけられたのでは、輝やいていられないと思う。私は、更に新たに形作った生活の形式、形式の黙許している種々なる関係に腐ったものがあるに違いないと感じました。その為に、自分は、目に見えて毒されて行く。こうしてはいられない。これを征服するか、征服されてしまうか? 征服された暁を考えると、そこには生きるに堪えないほど、威力を失い、自己の滅却された憐れな我姿を見ます。
 征服しなければ自己を守り得ないとすれば、私は、原因となる対象を全部否定し、生活圏外に放擲してしまわなければならない。約言すれば、自箇の天性があれほどいつくしみ信じ、暖く胸に抱いて来た愛の、対人的可能を、絶対に否定し尽さなければならないように見えて来たのです。無明のうちに安住することは本能が承知しない。はっきり自分にもその惨憺さのわかる遣りなおしも、ただ時間とほか、考えられなく成って来たのです。或る状態の裡からあるがままの自己をひっさげて出て来さえすれば、精神を自由にすることが出来ると思い込みかけたところに、この期の致命な危険が隠されていました。今思うと、実におそろしい。情熱は反動的に働く性質を有つ為本性とはぐっと歪んだ路に、自己を強いようとしかけたのです。
 どうなるか、息も楽に出来ない緊張の最中、私には、外面的に見ると妙な救が現れました。それは、私に非常な好意を持っていてくれる或る人が、私の当時の心境を察し、抱いている爆薬のような企図を、大層慫慂してくれたことです。ところがその人が不用意の間に発した一言が、私には霹靂のようなショックを与えました。かえって事態は、まるで逆転してしまいました。私は思わずはっとし、まるで異なった角度から、驚いて我というものを眺めなおし得たのです。
 私は更生といってよいほどの溌溂さを以て、自己の内的配置の移動を覚えました。永い間忘られていた純粋な歓喜が心を貫いて、涙をとどめ得なかった。何といおうか、人格の芯の芯まで光りが射し込み、自己内部に拘わっているものの純不純が一目瞭然とし、我というものに対して取るべき態度、延いては外界と自己との均衡がその時の最善に於てきっぱりと、わかったのです。
 この位置のきまったという感は、恐らく、次にまた大きな危期が来る迄、私の生活の基礎となりましょう。世の中というものを仮に大きい、複雑な諸質、諸力の活動している生物体と見ると、その裡に入った一細胞としての個性は、何等かの意味で、各自の在るべき場所を得なければなりません。精神的自信を持ち得る確さに於て。
 ところが、いわゆる、境遇の変化という通路によって、新たな有機体の中に這いったものは、そう容易に自己の場所を心的に見出し得るものではないと思います。押され自らも押し、種々な力の牴触を経て、しっくりと或る処に真から落付く。それから徐ろに周囲の養液を吸収し、整理し、発育して、自己の本質的な営みというものを明かにして行く。勿論、この期に得た、明瞭らしい外囲との相対的関係も、或る時間を経、進化の道程に不必要な老廃物となったら、必ず破れ、第二次的渾沌が生じましょう。然しそれを見越しても、その時にはその時必然の階梯を、みっしり踏んで置くことは大切と思うのです。
 私は、これ等の貧しい内省の裡から決して、一般的な訓戒や警告を抽き出そうとは思いません。多くの若い婦人は、決して、私ほど甘えて人生を見てはいられなかったでしょうし、「本むし」の弊も持たれないでしょう。けれども、最も低い声で囁けることは、こんな自己と外界との劇しい揉合いを誰でも一度は経験するとしたなら、いざ自己の落付こうとする時、殆ど無意識にとる精神的態度の如何によって、次期の渾沌が生ずる迄の幾年かの人格的趨勢を暗示されるのではないかということです。
 何故なら、性格の最も生産的な時期といえる成年、中年の時代が、時には余り沈滞した光彩ないものとして一般に感じられることが多くあり過ぎますから。
[#地付き]〔一九二三年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   195
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