上に地図を拡げ乍ら話し合った。
「去年? 四月ですわ、十五六日頃じゃあなかったこと、ほら菜の花が真盛りだったじゃあありませんか
「……それじゃあ三月末じゃあまだ寒いだろうな、何にしろ随分時候は遅れて居るんだから
茂樹の故郷は、敦賀の近処であった。
「だって拘やしないわ。いいわね、久し振りで田舎へ行くのは。えーと、何処でしたっけか、先、忠一さんが被行ったって云う温泉、彼処へ行って見ましょうよ、ね、若しよかったらお父様もお連れして
「――出来たらね
泰子は、一年振りで、又北陸の田舎を見られる事を相当に楽しみにして居た。
けれども、三月が押しつまって、出立の日が近づくに従って、始めの息込みが無く成った。
「私、行った方がいいか、行かない方がいいか随分疑問よ、そうお思いにならなくて? 行き度いことは行きたいけれども……ほら、ね? あれがあるでしょう
そう云い乍ら、泰子は、小さい自分の勉強部屋を顧みた。
机の上には、書きかけの原稿が散かって居る。もう久しい以前から手をつけて居るものを、彼女は、六月末までに纏めたいと希って居た。新らしい家庭生活が始ってから、まだ一年に成るや成らずの彼女は、主婦としても、妻としても、種々な「最初のもの」に余り多く接して、殆ど心の落付く暇が無く[#「く」に「ママ」の注記]かった。その為に、仕事は、自ら愧るほど捗取って居ないのである。
行こうか行くまいかと迷った揚句、泰子は到頭
「私、今度は止めましょう、そして少しでも遣りますわ
と云った。
「其もいいかもしれない。夏に行けるんだから……然し、一人では居られますまい。如何うする? 林町へ行くか……行ったら又お母様とお喋りで駄目だろう
「まあ、真逆《まさか》毎日喋り続けては居ないことよ
泰子は、笑った。
「自分の育った処ですもの、私も、偶には『いっさんばらりこ』を聞かないで、さっぱりするでしょう、真個に此処は喧しいんですものね
全く、泰子達が去年の秋から住んで居る其家は、場所と云い、構えと云い、不愉快極るものであった。
丁度駒込一帯の高台の端に建って居る、四間の家は、長屋のびっしり詰った谷一つを越して、桜や松の植込みが見える曙町の高台に面して居た。
夜に成ると、山門と、静かな鐘楼の間から松の葉越しに、まるで芝居の書割のように大きな銀色の月が見える吉祥寺が、大通の真前にあった。
俥が
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