した。それらの少女達はジャケツにお下げぐらいの簡単な服装をして居りますから体のこなしが如何にも自由自在で、軽やかです。そして心からニコニコしているらしく、頬にも瞳にも愛嬌がこぼれております。
この少女達は家庭に居っても割合に我儘に育って居ります。我儘と云っても不規則という意味ではないですよ。少女達の純な魂が、感じたり、考えたりすることを、そのまま正直にのべるのです。そのまま思った通りに行うのです。
お父さまも、お母さまも少女達のそうした行を悦んで許しておられます。日本の家庭のように、ああしちゃならないの、こうしちゃいけないのなんて、いつも小言をいうなぞと云うことはありません。私なども考えますのに、少女はそのまま自然に育つのがいいのです。日本の家庭などでは、少女が十四五歳頃になったら、もはや人間らしい感情で考えたり感じたりすることを認めてやらなければ可哀想だと思います。
アメリカの学校教育や家庭教育などでは、神と愛とを基として、導いてゆきます。日本のように修身科というものがない代りに日曜学校で聖書を教えております。自由な世界に放たれながら、アメリカの少女達が何故悪いことをしないかと云うに、
「神様にすまない」と心から感ずるからです。そして親達の思想が世界的に広がっているだけ子供たちまでが世界に対する自分の使命などと云うものも感じているらしゅう御座いますの。自分の存在が例え砂粒のように小さくとも、広く人間のために何かをなさなければならぬという感情を持っています。つまり人間性《ヒュマニテー》の情緒が強いんでしょうね。
私がまいりましたコロンビヤ大学の広い校庭などには、リスが沢山居ります。人が飼っているのではなく、野生なんですよ。それが皆な人になついて居ります。
子供などはよくピーナッツの皮をむいてはリスに投げてやります。すると枝にいるリスはとび降りて来て、うれしそうにその皮を喰べます。子供は可憐な手をパチパチと叩きながら、リスの喰べるのを悦んで見ているのです。そしてリスの喰べている間は、決してその傍によりません。
リスが怖がったり、心配したりすると可哀想だと思うからですわ。そう云う少女達は、お菓子を御土産にいただいても、決して自分の専有にするなどということはありません。皆なに等分に分けて上げます。それも誰も、そうせよと教えるのではないのですが、自分独りが
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