といで! 泊っといで!」
 手をのばして、椅子のわきに立っていた私の手を執った。
「真暗なところへ帰ったってしようがないだろう?」
「うん――でもね、明日の朝までに書いてしまわなけりゃならないものがあるの」
 手を執られたまま私は椅子をまわって父の足もとにあった低い足台に腰かけた。薄綿のどてらを着た父の膝に半ばもたれるように腕をおき、しばらく喋って私は、
「じゃまた十三日にね」
と今度こそ帰る気で立ち上った。母の命日が六月十三であった。一家揃って食事をする好い機会として父と私、そして家じゅうの者が毎月十三日、夜か昼かにきっと時間をあけておくようにしているのであった。
 父は、十三日にねという私の挨拶には直ぐ答えず、口を大きくへの字形にして悲しそうな八の字に房毛の出た眉毛を顰めながら頭をゆるくふり動かした。これは父の特徴ある身振りの一つで、気の毒な話を聞いたとき、悲しいような心持になった時、よくやるのであった。今の場合、その表情に半分のふざけた誇張が混っているのはよくわかって私は笑いながら、
「駄目よ、駄目よ」
 あわてて拒絶する恰好をした。そして一寸真面目な親しさにかえり、
「お父様だ
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