あつかわれている。何だかたっぷりしない。色彩の豊富な活きた印象が乏しい。私共は親しい源氏物語の光君は持っているが、彼とても、彼と交渉を持った数多い女性達の優婉さ、賢さ、風情、絵巻物風な滑稽等の生彩ある活躍にまぎれると、結局末摘花や浮舟その他の人物の立派な紹介者というだけの場合さえあるようだ。種々な作品を一般にいうと、女性の作家は何かの形でいつも「女としての」何ごとかを世間に向ってクレイムしていると思うのは私の誤だろうか。そういう相対的な観念を躍り越え、いきなりぐっと生《き》のままの男性に迫り、深い理解、観照を以て心や体を丸彫りにする場合は尠い。理解や観照は対象を愛することから生ずる。好奇心を刺戟されることから起る。そして見ると、女性は、男性が女性を愛すように男を愛さないということになるのだろうか、と私は不思議になるのである。
 本当に、女は男を愛さないのだろうか? それとも余り愛しすぎるので恥しがって愛さないようなふりをするのだろうか? 女性の芸術家が、男を充分視、自分のものとして活々扱わないのは、種々微妙な原因がありそうに思われる。第一、概して云って、女性は昔から受け身に愛されて来た。愛した女性は尠い。第二に、いつの時代からか、男ばかり主の社会となり、女性は陰で苦しい思いや不都合や云いたくても云えない思いを胸一杯にして生活していた。それ故、確《しっか》りした、ものの云える(筆でも何でも)女性は、我知らず女全体の代弁者的立場に自分を置き、冷静に批評した男性を作中に描いた。(こんな変な、勝手な男性を、まあ自分達はどうしてこのように大切にするのだろうかと怪しみ愕きながら)第三には、女性が、多く、性慾と愛との区別さえも自覚しない精神力の軟さを持つ点にも関係がありそうに思う。男性に対する時、大抵の女性は彼女の官能全部にぱっと、男性を感じる。そして、我知らず、恐ろしいほどたっぷり女性の中にある順応性によって、対象を観察するより速い直覚的順応作用を起す。けれども、それ等の自分の内部外部の経過をちっとも明瞭に意識しないように出来ている、或は癖のついている女性は、従ってその現象に自分ながら感歎することもなく、更に従ってその原因である男性をつくづく味い、眺め、探求し、抽象することがないのが普通だ。随分頭の進んだ女性にとっても、男性は自分と性的交渉を持つか――良人や恋人として――持たな
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