よもの眺め
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四六年一月〕
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 この数年の間、私たちは全く外国文学から遮断されて暮して来た。
 第一次欧州大戦の後、ヨーロッパの文学が、どんなに変化したかということについては、或る程度知ることが出来ていた。けれども、それにしても十分ということは出来ず例えば「チボー家の人々」は、主人公である青年が、大戦を経た若い時代の精神生活の推移として、世界観を変革されてゆく部分になると、翻訳は頓挫してしまった。世界の歴史の進展によって、生きている人間の活溌な心は、変らざるを得ない、という、最も人間的な、従って最も文学的なモメントにおいて、日本の読者たちは、検閲の扉で、ぴったりとその興味ある世界から閉め出されてしまったのであった。
「欧羅巴の七つの謎」というジュール・ロマンの著作は、第二次大戦前後におけるフランスの「善意ある人々」の国際情勢というものの観かたやそれへの処しかたが如実に描き出されていて、非常に面白いし深く反省もさせる小さい本の一つであった。ヨーロッパの文化の基底をなして来たフランスの個性の評価、「指導的な個人たち」が、第二次世界大戦へ向って動く各国間の矛盾の解決に対して、無力であったばかりか、個々人の影響力というものについてロマンが抱いていた善良であるが悲しい程非現実な期待のために、ファシスト政治家の極めて計画的な国際詐略にかかっている。一定の段階までは、人間性というものの巨大な発展の目安となって来た過去のインディヴィジュアリズムが第二次大戦の開幕とともに、音を立てて崩壊する姿が、「欧羅巴の七つの謎」のあらゆる頁にうかがわれるのである。
 わたし達は、ロマン及びヨーロッパ各国における一団の人々の善意の悲劇を知りたく思う。それにつけても、ロマンの近年における代表作であった「善意の人々」の完全な訳を読みたいと思う。フランスの作家ジュール・ロマンを、海峡の彼方の国々イギリスやアメリカの、平和を愛し、国際正義を希うおとなしく善意ある心情の友としたのは、その「善意ある人々」であった。
 第二次大戦の参加とともに、日本では明治以来の社会的後進性がすっかり露わになった。そして悲しがなし近代的個性の自覚の上によろめき立っていた文学は、最近三年間に、殆ど文化として抵抗らしい抵抗さえも示さずに崩れ終った。ここでも、日本なりに、現代文学における過去のインディヴィジュアリズムは崩壊したのであったが、フランスに於けるその現象との間には、根本の相異が見られると思う。フランスの所謂《いわゆる》教養の中では、十九世紀以来の個性の開花とその爛熟とが飽和点にまで達していたように見える。社会の全機構がその影響の下にあり、ガムランによって代表された軍事部門の内奥さえ、その軍人気質を情操として見た場合、殆ど哲学的に洗煉されて、いくらかシュール・リアリストがかってしまっている。古い果樹の、熟しすぎた果実として、フランスの文化伝統たる個人中心の考えかたは現実に破れたのであった。
 日本の場合、それは全く異っている。決して、たっぷりと開花し、芳香と花粉とを存分空中に振りまいて、実り過ぎて軟くなり、甘美すぎてヴィタミンも失ったその実が墜ちたという工合ではない。謂わば、条件のよくない風土に移植され、これ迄伸び切ったこともない枝々に、辛くも実らしいものをつけた果樹が、第二次世界大戦の暴風雨によって、弱いその蔕《へた》から、パラパラと実を落されたと云えないであろうか。これ迄のフランス文化が自身の古い土壌の上で養分を吸いきり、地中の有害な微生物を、その根から駆除するためには、よほど深く鋭い鋤かえしが入用であろう。日本の近代精神のより健やかなる展開のために先ず入用なのは、誤った技術家が非科学的に使う剪定鋏を引きこませること、及び悪条件にもちこたえつつ、どうやら命脈を保ちつづけて来た一条の民主的、合理的精神の幹に、全く科学的に考慮された接木《つぎき》をして、豊かな結実を可能にする方法ではなかろうか。フランス文化の事情より見ると、日本のそのような過程は、殆ど世紀の一節だけおくれている。しかも、それが同時的な人間の課題として、今日わたし共の前に提出されているのである。
 日夜地球はめぐりつつあり、こうして、或るところでは重く汁気の多い果実が深い草の上に腐れ墜ち、或るところでは実らぬ実を風にもがれているけれども、豊富な人類の営みは景観の複雑さを、其の面にだけとどめてはいない。ワンダ・ワシリェフスカヤの「虹」は、読むものに、一つの新しい感動をもって新しい文学の輪郭を予想させた。
『月刊ロシア』という雑誌は、どういう理由でか
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