よろめき立っていた文学は、最近三年間に、殆ど文化として抵抗らしい抵抗さえも示さずに崩れ終った。ここでも、日本なりに、現代文学における過去のインディヴィジュアリズムは崩壊したのであったが、フランスに於けるその現象との間には、根本の相異が見られると思う。フランスの所謂《いわゆる》教養の中では、十九世紀以来の個性の開花とその爛熟とが飽和点にまで達していたように見える。社会の全機構がその影響の下にあり、ガムランによって代表された軍事部門の内奥さえ、その軍人気質を情操として見た場合、殆ど哲学的に洗煉されて、いくらかシュール・リアリストがかってしまっている。古い果樹の、熟しすぎた果実として、フランスの文化伝統たる個人中心の考えかたは現実に破れたのであった。
日本の場合、それは全く異っている。決して、たっぷりと開花し、芳香と花粉とを存分空中に振りまいて、実り過ぎて軟くなり、甘美すぎてヴィタミンも失ったその実が墜ちたという工合ではない。謂わば、条件のよくない風土に移植され、これ迄伸び切ったこともない枝々に、辛くも実らしいものをつけた果樹が、第二次世界大戦の暴風雨によって、弱いその蔕《へた》から、パラパラと実を落されたと云えないであろうか。これ迄のフランス文化が自身の古い土壌の上で養分を吸いきり、地中の有害な微生物を、その根から駆除するためには、よほど深く鋭い鋤かえしが入用であろう。日本の近代精神のより健やかなる展開のために先ず入用なのは、誤った技術家が非科学的に使う剪定鋏を引きこませること、及び悪条件にもちこたえつつ、どうやら命脈を保ちつづけて来た一条の民主的、合理的精神の幹に、全く科学的に考慮された接木《つぎき》をして、豊かな結実を可能にする方法ではなかろうか。フランス文化の事情より見ると、日本のそのような過程は、殆ど世紀の一節だけおくれている。しかも、それが同時的な人間の課題として、今日わたし共の前に提出されているのである。
日夜地球はめぐりつつあり、こうして、或るところでは重く汁気の多い果実が深い草の上に腐れ墜ち、或るところでは実らぬ実を風にもがれているけれども、豊富な人類の営みは景観の複雑さを、其の面にだけとどめてはいない。ワンダ・ワシリェフスカヤの「虹」は、読むものに、一つの新しい感動をもって新しい文学の輪郭を予想させた。
『月刊ロシア』という雑誌は、どういう理由でか
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