した。中に、どんなお召が入っていたでしょう。翌朝、暗いうちに鏡に向って、初めてそれを着て見た時は、流石《さすが》の王女も、暫くは息もつけない程でした。
着たまま、人魚にでもなってしまうのではないでしょうか。着物の裾には、睡い、深い、海の底の様子が一面に浮上りました。銀の珠でも溶かしたように重く、鈍く輝く水の中では、微かに藻が揺れ、泡沫《あわ》が立ちのぼります。肩にたれた髪から潮の薫りが流れ出して、足許には渚の桜貝が散りそうです。
次第にお城の柱に朝日が差して来る頃になると、鏡の前に立ったまま、王女の着物は、ほっそりした若木の林が、朝の太陽に射とおされる模様に変りました。海底の有様は柔かい霧の下に沈み、輝く薔薇色の光線の裡に、葉をそよがせる若い樹が、鮮やかな黒線で現れます。昼頃になると、王女の体全体はまるで天降った太陽そのままに燃え輝きました。胸といわず裾といわず、歓びを告げる平和な焔色にきらめき渡る頂に、澄んだ彼女の碧い二つの瞳ばかりが、気高い天の守りのように見えるのでした。
この着物を身につけさえすると、王女はたといどんな泣き度いことがあっても、それを忘れることが出来ました。つきない泉のような悦ばしさ、照る日のような望みが糸の繍いめをくぐり出て、日々新たに王女の魂を満すのです。
不思議なことに、一本針の婆さんは、着物を王女に差上げると、そのまま姿を隠してしまいました。家の扉の錠前は赤く錆つき、低い窓には蜘蛛が網を張りました。部屋の中には、唯一枚、大きな黒|天鵞絨《ビロード》の垂幕が遺っているばかりです。然し、その垂幕には、此世でまたと見られそうもない程素晴らしい繍がどっしりとしてありました。
そよりともしない黒地の闇の上には、右から左へ薄白く夢のような天の河が流れています。光った藁のような金星銀星その他無数の星屑が緑や青に閃きあっている中程に、山の峰や深い谿の有様を唐草模様のように彫り出した月が、鈍く光りを吸う鏡のように浮んでいます。白鳥だの孔雀だのという星座さえそこにはありました。凝っと視ていると、ひとは、自分が穢い婆さんの部屋にいるのか、一つの星となって秋の大空に瞬いているのか、区別のつかない心持になるのでした。
お婆さんを見かけたものはありません。
併し、毎月、八日の月が丁度眼鏡の半かけのような形で、蜘蛛の巣越しにお婆さんの窓を照す夜になると、
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング