つけた二枚の羽根ではなくて、飛ぶ可能を万人に与えるような社会条件をつくり出してゆく科学の諸方式と集団的なその実行となってきている。イカルスも、プロメシウスも現代説話では、その質と表現とをかえた。ギリシア伝説の巨人は人民のなかに入って、一つの民族をかたちづくるそれぞれの人民の可能性として、今日から明日を生み出しつつある歴史のにないて[#「にないて」に傍点]として、登場して来ているのである。
 歴史というものは決して、ただあることがこうしておこり、こうして終ったという現象の記述ではない。あることがおこった条件、それがそのように終った理由、全事件が人間社会の発展にどんな意味をもつかというところまで立ち入って見られたとき、それははじめて、人間の記録として、今日をより豊かにし、明日をより聰明にする歴史というにふさわしい。
 日本の新しい歴史教科書『国のあゆみ』がその精神において低劣なのは、あの本のどこにも日本人民のエネルギーの消長が語られていず、まるで秋雨のあと林にきのこ[#「きのこ」に傍点]が生える、というように日本の社会的推移をのべている点である。毛穴のない人工皮膚のような滑らかさで、ことなかれ、ことなかれと時代から時代へぬき足してすべりこんでいる。人類は、そんな卑劣な生存ではない。リアリティーはゴム製人形の陳列棚ではない。生きる情熱は、よかれあしかれ、しぶきをあげて波うち、激し、鎮静し、その過程に何らかの高貴さを発現するものである。
 伝記というものも、こういう歴史そのものの本質に立つ以上、ある人の身の上にただこれこれしかじかの事件が起った、よくそれに耐え、それを凌いだ、云々という訓話的記述であってはつまらない。個人の枠のなかで、どんなに詳細にそれを分析してみても、過去及びこんにちの現実にプラスすることが少いのは、ステファン・ツワイクのようなすぐれた伝記作者でも、フーシェをつまらなく書いたことでよく証明される。ツワイクはフーシェに個人的興味をよせすぎ、主観的な照明をあてすぎ、血の気のうすいものを書いた。バルザックが、彼の人間喜劇のところどころに隠見させているフーシェの方が、垣間見の姿ながら時代の生々しい環境のうちにあくどい存在そのままにとらえられていて、はるかに傑出している。
 ナポレオン伝において、大革命につづく混乱期に列国の旧勢力とフランス内の旧勢力とがどのように結托して、名誉ある本命の血から帝政と王制復古の馬鈴薯を生やしたかという要《かなめ》が解剖されていないならば、こんにちの日本のわたしたちにとって読むべき真実の価値はないだろう。そして、今日の世界はフーシェにあきている。欲するのはジャン・ジョレスである。――四分の一世紀を経た今日では、一人のジャン・ジョレスも死なせまいとする世界平和のための大組織を目ざす自主平和の人民のよみものとして。[#地付き]〔一九四八年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「伝記」
   1948(昭和23)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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