して、天上と地上の支配者ジュピターは激怒するという想像を拒むことができなかった。プロメシウスが、ジュピターによって地球の骨といわれたコーカサスの山にしばりつけられ、日毎新しくなる肝臓を日毎にコーカサスの禿鷹についばまれて永遠に苦しみつづけなければならない罰を蒙った、というこの物語の結末を、後代からは叡智の選手のように見られたギリシアの哲人たち誰もが変えようとしなかった。
比類なく自由だったと思われているギリシア市民が、彼等の伝説の中で、なぜイカルスやプロメシウスのように雄々しく、若く美しい冒険者たちを、黒髯のジュピターの怒りのもとに無抵抗にさらさなければならなかったのだろう。ギリシアの諸都市が、奴隷をもってその繁栄の基礎をなす生産労役をさせていたという現実が、この微妙な自由における矛盾の心理的根拠となっている。ギリシアの自由都市の人々は、自由人一人について奴隷数人という割合であった。自由なギリシア市民の精神は、自由という面よりイカルスもプロメシウスも積極的に想像し、その想像をうけいれることが可能だった。しかし、その半面の現実である奴隷使役者としての市民感情は、敢てなお[#「敢てなお」に傍点]人類の勇敢さというものを無際限、無条件に肯定しかねる心理が存在した。自由市民が労役奴隷に対して、どたん場で発揮し得る絶対権力があった。その姿がそっくりそのままギリシア伝説におけるジュピターの専制権力として反映した。かりに優秀な人間的力量にめぐまれたある奴隷が、奴隷として許された限界を突破して――主人の繁栄と利益のためにだけ献身するという目的を破って、自身の解放のためにその才能を活躍させるとしたら、奴隷所有者の不安はいかばかりだろう。奴隷の能力は、公平に評価され、愛され、一応の屈辱的待遇より彼を自由にするであろう。だが、決してそれは条件なしではなしに――決してそれが、自由市民の安定と繁栄とをゆるがさない条件の下において。――さもなければジュピターはたちどころに天罰をくだすだろう。奴隷自身の自由のための奮闘は、所有者にとって反逆とうけとられる。反逆という観念は、所有者の政策に反した。イカルスを死なせ、プロメシウスをさいなむような残忍さで、主人の怒りは才能と勇気のありすぎる不運な奴隷の頭上におちかかるだろう。身のほどを忘れるな。ギリシア神話における自由の矛盾のかげには、このような奴隷制の上にきずかれた自由市民の自由そのものにある矛盾が反射しているのである。
ギリシアのどんな賢人も、今日、東洋の一人の婦人作家が、彼等の伝説について話すこんな風には自身の伝説を話さなかった。なぜなら、彼等の叡智も、ギリシア社会の自由の矛盾を客観することは不可能だったから。叡智は奴隷の労役の上につくり出された閑暇の上に咲いていたから。ギリシア伝説の支配階級のものとしてのモラルは、それら賢人たちのモラルとして実感されていたのであった。現代の社会科学は一人の平凡な女性にもこの意味ふかい秘密をときあかして見せている。そこに進みゆく歴史の足どりの意義がある。
レオナルド・ダ・ヴィンチの能力に匹敵するどんな能力が、いまこの物語をかいている一人の日本の女とその読者のうちにあるというのだろう。比較になり得ない後者の貧弱さにかかわらず、なおかつ、わたしたちはレオナルドの時代が考えなかった事実を航空機に関して考え、彼らの感じなかった感情を感じつつある。イカルスの物語は、空をもとびたい人間の憧れを人類的な規模で語っている。レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス時代の新鮮旺盛にめざめた科学への開眼で、その人種のあこがれを科学の力で実現してみようとした。前後いくつもの世紀を経て、人類の科学的能力はとうとう、航空機製作というものを最も大規模な近代的産業部門の一つとするまでになった。ところで、すべての人類共通のものである空をとびたい思いは、どんな形でかなえられているだろうか。目ざましい航空能力は、果して全人類のよろこびのために、幸福のために万遍なくつかわれるところまで発達しているだろうか。
航空能力は、人類生活のよろこびと、よりひろい眼界をもつことによって、より宇宙的人類に生長してゆくために、全人類に解放されなければならない。他のあらゆるよいもの、賢いもの、美しいもの、有用なものと同様に。石炭、石油、鋼鉄そのほかさまざまの地球のもちもの同様に。音楽、文学、映画などが、地球の各人民の生活からそれぞれの特長をもって発生しつつ、全人類の所有に帰すると同じように。
したがって、現代説話のイカルスは、太陽熱にとかされる古風な膠などで自分の背中に翼をとりつけてはいない。イカルスは一人ではない。複数になった。地球上幾億の翔ぼうと欲している男女はイカルスとしてあらわれて来ているし、その翼は、膠で背中へ
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