くない。
 女優――斯う云う言葉の中に何とはなしに私にはいやにひびく音がまじって居る。
 女役者と云う方が私はすきに思われる。
 女役者のあの人と私、そう思うと何故とはなしに涙がこぼれる。
 あの人は今大阪に居る。私は東京に居る。
 あの人は女役者で、私は――
 私とあの人――はなれられないものだと云う事だけを私はハッキリ知って居る。

     夜の町

 下町のどよめきをかすかに聞いて夜店のにぎやかさ、それをうめて居る軽い浮いた気分、――そうしたものを高台に育った私はなつかしがって居る。屋敷町の単純な色と空気の中で人いきれと灯影でポーッとはにかんで居る様な向うの空を見てその下に居る人達の風、町の様子を想像して居る。あの、夜あるくにふさわしい様な――どこまでこのまんま歩いて行ってもその先々にキットたのしい事が待ちかまえて居る様な気のする銀座通りを私は毎日歩いて居たいと思う。何となし斯う、熱い気持のする柳の下に細々とかんテラがともって色のあせかかった緋毛氈の上に、古のかおりのほんのりある様な螺鈿《らでん》の盆や小箱や糸のほつれた刀袋やそんなものは夜店あきんどが自分の生活のためにこうやって居るとは思われない。うす黒い柳の幹に、しみのある哥麿の絵や豊国の、若い私達の心をそそる様な曲線の絵が女達の袂のゆれに動く空気にふるえて居る――その絵のにせものなんかを見る余裕もないほどに私の心にせまって来る。目のとどかないほど高い建物のわきに、――まぼしい電燈のかげに――緋毛氈とカンテラの別の世界が□[#「□」に「(一字不明)」の注記]よせて哥まろの女のほほ笑みかくれた天才の刀のあとが光る、――斯う思うだけでも私は細く目をつむってほほ笑みながら小さい溜息をつきたくなる。
 行って見たい――私は田舎の娘の都を思うと同じ調子にこの色も空気も気分もまるで違った銀座の通りをあこがれて居る。
 なろう事なら一晩あの通りにうれてもうれないでもどうでもかまわないからあの古道具屋になって座って見たい斯んな事も思って居る。鹿の角の刀かけの上に光って居るカタナと云うものを珍らしげな又こわらしげな様子をしてのぞき込む裾のせまい着物を着た異国の女、すべてが活き活きした若い人達の心にふさわしい様な夜の様子を思うと体の中の方からかるい震えが起って来るほど――銀座の夜は私になつかしい。気のあった若い人とだまって居ながら同じ事を考えながらあの道をスベッて行きたい、心の底に小さい又すてがたい詩の湧いて居る気持で――
 唐人まげに濃化粧の町娘にも会うだろうし、すっきりしたなりの女にも会うだろうし――
 銀座の夜の町に私が行ったらキッと誰かが私を知って居て待って呉れるんじゃああるまいか――
 夜の時、銀座、私は斯う云って豊国の絵の女の頬のまるみを思う。

     静けさとうれしさ

 夢よりも淡い静けさ、――小雨は音もなく降って居る。黒土は娘の肌の様に。枝もたわわに熟れた梨の実はあの甘い汁の皮の外にしみ出したように輝いて居る。萩はしおらしくうなだれてビワのうす緑の若芽のビロードの様な上に一つ、二つ、真珠の飾りをつけた様に露をためて――マア、私は斯う、小さい、ふるえたため息をもらさなくては居られないほど嬉しさにみちて居る。泣きぬれた瞳の様な、斯う思って私は椿の葉を見て居る。頬ずりをして見たい様な、斯う思っていかにも柔かそうな青い苔を見る。木の葉の茂み、その肌からうれしさがしみ出して私の心の中に通うような苦しいほどの嬉しさに私の目には涙がにじみ出して来る。私の心はどうにも斯うにもしようのないほど波立って来る。ジット目をつぶると、静けさ、嬉しさは、ソット忍足に私の心の中にしみ込んで行く。かるいほほ笑みのくすぐる様にうかぶかおを両手でおさえて私はつっぷした。モウ何とも云われないしずかなおだやかなふるえるほどいい気持に細い細い雨の一条一条のすれ合う音が私の体のまわりを包む。
 たまらないしずけさ、うれしさ、――私の頬にはとめどもなく涙が流れる。涙に雨のささやきがひびいて又私の体をおそう。気が狂いはしまいか気が遠くなりはしまいかと思うまで私の心はふるえにふるえて居る。「体をなげつけて、こんなに美くしい柔い雨にうたれたい」私はこう思いながら笑った。涙は流れる、けれども口元には笑いがただよって居る。自分に分らないこんざつした気持を希臘《ギリシャ》時代の絵のような不思議なこころもちでソーッとのぞいて居る。しずけさ、――私の頬にはまだ涙が流れて居る。限りないこのうれしさ、しずけさの中に私はマア、……。ほんとにうれしい!

     低気圧の強い時

 鏡ん中には片っ方は妙に曲ってふくれた、も一方は青い色にしなびて居る私の頬をうつして居る。「にくいむしばめが……」形のない、又目にも見えないものを私は斯うしかりつけた。
 たまらないほどイライラする気持で鏡の前を飛びさった。そして、私のかおのうつるものとては一つもない部屋――私の本ばかりある部屋に入った。机の前に腰をかけて何心なく頬杖をつくと片方の違いが又ハッと思うほどわかる。「いやんなっちまう」こんな事を云ってしまつの悪い二本の不細工な手を卓子の上にパタッとなげつけた。まぎらそうとして本箱の本を見ては一々その中の事を思い出して居る。順々に見て居ると私のすきなのが二冊見えない。又あれがもってんだと思うと、すぐだらしのない、ウジウジした袴をいつでもおしりっこけにはいて居る男の様子が目の前にうかぶ「よりによって私のすきなのをもってかずといいに――たった一度見たけりゃあもってってもいいって云ったら、いい気んなってどれでもとってって仕舞う」
 まさか面と向っては云えないこんな事もかんしゃくまぎれに云った。何を見てもいやにこん性わるく弱々しく、そしてしゅうねん深くこびりついて居る痛みに気をひかれる。ソーッと義《イレ》歯をかみ合せて見る時みたいにやって見るとすぐつまさきから頭のつむじのてっぺんまでズキン――すぐ涙がスーッとにじみ出て来る。お正月にこの歯が悪くって血脇さんに行ったんだけれ共あの色の生っちろい男がむしずが走るほど気に食わなかったで十日ほどでやめたばちだと云えば云われるが――そうなんでしょうって云われればまけおしみのつよい私は違うんですよって云うにきまって居る。
 理屈はとにかく痛い事は痛い、たださえ骨套[#「套」に「(ママ)」の注記]的に出来上って居るかおを左頬をプクンとふくらませて八の字をよせて居る顔はさぞマアと思うとあいそがつきるほど腹が立ってしまう。ろくでもないげんこを作ってトントンと卓子の上を叩く、そのいやに人馬鹿にした様な響までが気にさわる、何かうたでもうたって見せろと、一声出すとろくに口が廻らない気がさしてフッとやめてしまう。ほっぺたを押えて見たり、かみ合わせて見たり、ああしこうしして見ても痛いのはなおらない。家の人から宝丹をもらってやけに口一っぱいぬりつけてしまう。口もあつみがふえた様にボテボテして感じがにぶくなってしまった。痛みは少しいい。泣きつらに蜂はこの事だと思われた。笑う人の気がしれないって一人でプリプリして居る。笑いたいと思ったって、かんしゃくが起って笑えやしない。
 頭の半分までが御しょうばんをしていたくなって来た。弟があの人を人とも思わない様な図々しい鼻をびくつかせて私の顔を見ちゃあ笑って行く。ポヤッとした様な形が私の気にますますさわる。めんどうくさい、ちょんぎってしまえばいいに、とこんな没義道な事まで考える。頭を抱え込んでまるで学者が考え事して居る時みたいに家中をあるきまわる。床がギシギシ云う、天井にすすがぶらさがって居る。女中達が考えのいかにも無さそうなゲラゲラ声をたてて笑って居る――そんな事はよけいに私を怒らせて、まるで今日だけ特別に私をからかうために出来て居るかと思われるほど並んで、揃いに揃って私の心を勝手におこらせたり、イライラさせたりして居る。まるで男と同じ足つき調子に又元の部屋にかえる。涙がも一寸でこぼれそうなほどかんしゃくが起って居る。胸がドキドキ云い、頭はがんがんするし耳まではやす様に鳴って居る。
 ぶっつける様につっぷした。宝丹香いがプーンと鼻をおそう。目の前にきたならしい体をさらけ出して居る壁を見ると自分の体をぶっつけてこわしてしまいたいほど重っくるしいさえぎられた様な感じがする。
 目をつぶって顔を抱えて……段々心がしずかになって来ると一緒にやたらむしょうにかんしゃくを起したあとの淋しさがたまらないほど迫って来る。口の中で、
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トウレの君のかたり草
誠かはらで身を終へし
愛人がいまはにのこしたる
黄金のさかづきまもりつゝ
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事をうたって居た。おだやかな気持にかえってあの帝劇で見た時のグレートヘンの着物、声、口元そんな事を思い出して居た。そうすると又小っぽけな小供達がけんかをはじめた。あの泣き声、叱る声、わめく声、又それをきくとかんしゃくの虫がうごめき出すと一緒に痛みが歯の間に生れる。こんな一寸した下らない事で又私の頭はごっちゃごっちゃにかきまわされてしまった。居ても立っても居られない。
 私は柱にドスンドスンと体をぶっつけながら涙をこぼして居る。
「又一日ねころんで居なくっちゃあなるまい、子供なんて……、どうしたってすきになれるものか……」と天井をにらんで云った。いたいのも、涙の出るのも分らないで、只クシャクシャばかり感じるほど私の心の中にはひどい低気圧がおそって居るのだ。

     猿芝居

舞台の下からつまだてて
そっとのぞいた猿芝居
釣枝山台 緋毛せん
灯かげはチラチラかがやいて
ほんにきれいじゃないかいナ
シャナリシャナリとねって行く
赤いおべべの御猿さん
かつらはしっくりはまっても
まっかな御かおと毛だらけの
御手々をなんとしようぞいの
それでも名だけは清姫さん ほんとにおかしじゃないかいナ
土間に坐った見物の
御重の間につややかな
ながしめくれてまいのふり
泣く筈のとこまちがって
妙なしなして笑い出す
ほんに笑止じゃないかいナ
つまたてて
ソッとのぞいた猿芝居……

     火取虫

ブーンととんで来るきまぐれものよ
御前の名前は何と云う
丸いからだで短い足で
それでたっしゃにとぶ事ネ
私は前からそう思う
ころがる方がうまかろと
むぎわらざいくのそのような
青いせなもつ火取虫
ガスのまわりをブンブンと
羽根のたっしゃをほこるよう
小供がうちわでおっかけた
小さい火取は斯う云った
「何んて云うおなまな御子だろう
貴方に羽根はありますか
これが私しのにげどこで
天のかみさまなんてまあ
細工のうまいこってしょうね」
小さい火取はなおブンブン
ガスのまわりをとびまわる
なんぼたっしゃな火取でも
よっぴてとんではいられない
羽根をやすみょとて床の上
ジューたんの上におっこった
するといきなり骨ばった
でっかい指がニュッと出で
体を宙にもちあげた
そしてその手のもちぬしは
ズーズー声でこう云った
「なああんた、おらが先ごろ飼うて居た
七面鳥が大すきで
くれればきりがあるまいネエ、……」

     棚のだるま棚下し

ひげのおじさん貴方はマア
何と云うどえらい御方だろう
朝でも晩でも欲の皮
つっぱりきったねがいごと
それかなわぬとあたりつけ
わしに湯水も下さらぬ……
  片っぽ目玉のそめられた
  棚のだるまさんの口こごと
何と云うばった御方じゃあろう
千両箱がふえます様
倉が沢山たちますよう
着物が沢山出来ますよう
とくいが段々ましますよう
おじさんのねがいはこればかり
何と云うばった御方だろう
  めっかちだるまさんの口小言
  棚の上から
    棚下し
女房もらえば子が出来る
子供が出来れば金が入る
金が入っては大変だ
女房のきりょうがわるければ
店のかんばんにもならず
ただくうてねて金が入る
それでは事がめんどうと
ひげのおじさんは一人ずみ
御念の入ったばり方と
  びっくりおどろくだるまさん
月に一度は大師さん
参る
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