んのような人のくせにどうしてああ身のまわりの事には気をつけるんだろうと妙に思われた。そしてまだ一度も紅をさした事のない唇をそっとしめした。
 間もなく御仙さんが帰ろうと云い出して御まきさんも、
「えらい御やかましゅう。牛込の姉はんのとこに居まっさかえ、貴方も御いでやす。まってまっせ」
 中腰をしてこんなことを云いはじめた。
「マア、ようござんしょう、も一寸いらっしゃいよ。まだ早いじゃあありませんか」
 御仙さんは母の斯う云うのをきいて心もとなそうに御まきさんの袖をひっぱって居る。
「せっかくどすけど……ここなややさんがききませんさかえ。
 ナア、そうやろ、ほんまに大きに御邪魔、御めんやす」
 御まきさんは御仙さんに御辞ぎをさせてそそくさと玄関に行ってしまった、
「西の人はゆっくりだってのにあなたは随分せっかちだ事」
 母はこんな事を云いながら送った、私も御仙さんのふんだ足あとをボカすようにしてあるいた。
「あすは歌舞伎や」
 御仙さんが車にのる時チョッとこんな事を云った。
「さようなら、御仙さん、近い内」
 私が斯う云った時車の上の御仙さんは、
「上りまっせ、こんどは人形はんか何かもってなも」
 こんな事を云った。私と母は、かおを見合せて笑んだ。
「御めんやす」
 御まきさんが斯う云うと車は段々くらい方に入ってしまった。
「京都で育った娘なんて随分ぼんやりなもんだ事、けれども御化粧だけは随分気がつくもんだ事」
「厚い御化粧で長い袂と着物であんなあたまで御かざりにはいいけれど」
 母と二人でこんな事を云いあった。
 御仙さんの云ったことばやそぶりなんかでいつまでも忘られないほどのとこは一つもなかった。ただいつまでもあの唇の紅と千鳥むすびと花ぐしとすり足ばかりが目の前にちらついて居た。



底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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