ついてはどんなに若い女性のロマンティックな英雄心を刺戟しただろう。日本の人民は細長い島の国の上で、全く世界から遮断され、すきなままに追い立てられた。超国家主義の合言葉の下に、世界といえば日本のほかにナチス・ドイツとファシスト・イタリーしか存在しないように。――ラジオの子供の時間が、ドイツとイタリーは日本の親類ですと放送していた、あの女の声、あの男の声をわたしは忘れることができない。
ポツダム宣言の受諾によって、日本の侵略戦争の本質が示され、民主主義の方向をとるといっても、日本の多数の人々が、呆然としているばかりだったのは無理なかった。海もてかこまれし島の住民は、自分たちの運命を破壊しているのがファシストであり、狩りたてられて心にもない惨虐を行い、母よ許し給え、神よ許し給えと手帳にかきのこして若者が死んで行った戦争が侵略戦争であるということさえしらされていなかった。いってみれば、そんなことを知るすべがなかった。国際社会の現実を語るすべての思想と言葉は禁止され、そういう人は治安維持法で投獄させられた。
日本の民主化がいわれはじめてから、人間性の尊重が見直され、それにつれてヨーロッパの近代の夜明けである文芸復興《ルネッサンス》が語られるようになった。けれども、聰明な読者よ。あなたの手許にある歴史年表は何を示しているだろう。十四・五世紀、ルネッサンスの花がイタリーを中心としてヨーロッパに咲き乱れレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、シェイクスピアと人類の才能が開花したときの日本は、戦国時代だったことをはっきりと理解しなくてはならない。日本はもう鎖国していた。それから、三世紀に亙る徳川の封建時代。半分チョン髷の心理がのこっている明治。ひきつづききょうまでわたしたちの国際的な感覚は不運な歴史のつづきである。
日本が地理的に大陸からはなれていて、人民の経済能力が低いことは、ヨーロッパの学生や勤人が休暇旅行に隣りの国の親戚や友人を訪問しあう手軽さを許さない。旅費の関係からだけでも、これまでの日本で外国生活を経験している人の種類は多く中流以上の階層だった。その事実は、きょうでもまだ日本の一般人の国際的な動きを制約している。そのために、今日外国を見て来るほんの少数の人は、何とはなし特別なもの知りのように思われ、それぞれの職域で一種の権威者のようになりがちである。しかもその職域は、まだ根本から、民主化されきっていず、官僚的だったり、半封建的だったりするため、そして外国生活をした本人そのひとの気分にそういうものがのこっているところもあって、その人の権威は単純にその職域で見聞と経験のひろい人というだけでなくなって来る。自分として「偉くなったようで」あろうし、また偉くなったような位置におかれ、民主的な要素の少い社会ではどうしてもそのことが、支配的権力の側にひき入れられやすくしている。
この実際は、朝鮮がもと日本の植民地だったときの事情をみればよくわかる。日本語を強制された朝鮮人民の生活の中で、日本語が話せ、日本字のかける朝鮮人が、総督府の官吏になり、巡査になり、収税吏になって、今日になってみれば、同胞の自由を抑え搾る仕事に協力していた。しかし当時、朝鮮で権力をもっていた日本官吏や事業家は、その朝鮮人が日本語を話すという便利さから、何か特権めいた扱いかたをした。その国の人民生活にほんとの独立とそれによる国際性のない場合、一つの外国語を知っているということが、その人を屈辱的な存在とすることがわかる。
中国の作家郁達夫の死は、またちがった一つの悲劇であった。日本語のできる郁達夫はビルマの辺鄙な村にかくれて戦禍をさけていた。遂にそこへも日本軍が侵入して来た。或る日、往来で土地の住民が虐殺されかかっているのを見て、郁達夫の唇から思わず日本語がほとばしった。土地の住民の命はそのために救われ、郁達夫は、その日本語のため、侵略軍のために働かされることとなった。一九四五年八月が来てその土地の憲兵隊が敗退してひきあげるとき彼等は郁達夫に日本語がわかり、彼等の侵略行動の目撃者、戦犯の証人であるということを恐怖した。彼等は郁達夫を殺した。
郁達夫の物語は、わたしたちにジャンバルジャンを思い出させ、レマルクの「凱旋門」の主人公ラヴィックが人間らしくまた医者らしい咄嗟の行動で往来の負傷者を救ったことからパリを逃れなければならなかった情景を思い起させる。
中里恒子氏の「マリアンヌ」その他の小説をよんだ人は、ファシズムの日本で国際結婚をして日本に来ていた外国の男女の人々、その混血児たちの生活がどんなに苦しく、非人間的であったかを十分想像するだろう。上品に語られずにいる苦しさを思いやると肌の粟だつ思いがする。またシュールの画家岡本太郎氏のように、十五六歳からの十余年をパリで生活して、日本へかえるとすぐ頭を丸刈りにされて侵略戦争にうちこまれた人の心と体の経験には、どんな深い裂けめが開かれたことだろう。その裂けめから彼の人間性に反射するのは何の思いであろうか。それに似た思いの若い女性のあることも現実である。
わたしたちが普通国際的と云っている言葉の奥に、どんな特殊な日本らしい[#「日本らしい」に傍点]感情のかげが沈んでいるかということも考えてみていいことだと思う。日本で国際的というとき、何よりつよい感情は世界の仲間入りという感情である。この感情が普遍的だということは、ラジオが一九四七年度のハイライトで水泳の古橋選手を紹介するとき、アナウンサーは古橋選手のレコードで日本もやっと国際的な一つの窓をあけられたように明るくなった、と語った。日本の国際感覚には、後進国らしくそして封建くさく、仲間入りさせて貰える、仲間入りするようになった、という要素が案外につよい。対等につき合うことは既定の事実で、それからさき、どうつき合うかが問題であるヨーロッパの国際性とはちがった気分が流れている。これを逆にして、アジアに向うと明治以来の日本は、女性さえも中国・朝鮮に対して侵略以外に知っていない。日本の婦人作家の書いたどんな中国の人民生活の文学があるだろう。パール・バックの作品の程度のものさえもない。アリス・ホバードのように中国における外国資本主義の活動の跡づけもない。その人々が個人としてどんなに聰明でも、侵略者の位置にたったとき、真実はその人からかくされる。
日本に世界の平和と人類の幸福を願う国際組織がなかったわけではなかった。たとえば国際ペンクラブは、第二次世界大戦のはじまる少し前、ファシズムに対して世界の人民の自由と文化の自由を衛ろうとする大会を開いた。日本からは島崎藤村夫妻が出席した。日本の代表的文学者である藤村が、世界平和とファシズムに反対するためのさまざまの意見を求められたとき、わたくしにはわかりません、存じませんでおしとおしたことは、先頃の朝日新聞にもかかれていた。それから日本のペンクラブは国際連帯からぬけ、日本ペンクラブとなった。
ハリウッドに開かれるMRA(モーラル・リアーマメント)の大会に日本代表として尾崎咢堂の令嬢夫妻や三井一門の一家族が出発するときいて、わたしたちはおどろきを感じなかったろうか。デンマークでMRAはナチ占領下で平和と民族の自由のためにさまざまの活動をした。戦争の苦しかった日々、わたしたちは日本でこれらのMRA支部員のどんな活動にもふれ合うことが出来なかった。丁度首相になるときから、クリスチャンであることが人民にひろく知らされた片山哲氏について、戦争中人民は彼についてクの字さえ知っていなかったように。今日となればお互にきまりのわるい、このような辱しめの状態があったのも、日本のなかで、わたしたち一人一人の社会的自由と良心の自由とが失われていたからこそである。
世界には日本をこめて約二十三億の人口があり、七千余万の日本の人口の九割五分が勤労に生きる男であり女である。どこの国でも、勤労によって生きる人民の数は、他人の勤労の結果によって生れる利益によって生活する人の数よりも多い。この人民と人民との間の国際的つながりこそ、明日の国際関係の基礎である。一人の天才を期待することで、世界の歴史は好転しないし、人民の苦悩は解決しない。一握りの権力者が自分の利益から選択した外交――国際関係の運びかたで、わたしたちの生活はこんなに傷つけられた。王と王との国際性から、資本家の・軍人の国際性、それが第二次世界大戦でこのように破局を示したあとには、人類社会の根である働く人民と人民との間の幸福への真面目な協力しかあり得ない。民主的な国際性とはきょうのこの歴史の段階をさしている。世界平和と民族の自立と安定のための世界民主婦人連盟を八〇〇一万人の婦人が五十数ヵ国から集って、組織している事実一つをとってみても、世界の正直な人民は、どれほど本気で平和と建設のために国際的協力をしているかがわかる。民主的で平和な世界へすすむために五十六ヵ国約六七〇〇万人の組織労働者が参加して世界労働総連合が組織されている。世界各国に反ファシズムの組織があり、日本では何か特別のもののように考える習慣をつけられている共産党に属する人は世界中で二八〇〇万人を越えている。そのほか東ヨーロッパの民主的な諸国の人民。中国の民主化された約四億の人々、ソヴェト同盟の二億を越す人民。これだけの人民の意志が、永続的な平和と民族の自立・民主生活の安定をもとめているということは、わたしたち日本の婦人にとって何ごとをも意味しない事実だろうか。それほど、わたしたちは、食べ飽き、幸福にみちたり、どんな悲歎からも遠い存在であるだろうか。自分たちの祖国のせまくとも誇りあるべき土の上に、浮浪児や失業者や体を売って生きる女性群を放浪させながら、少数のものが自覚のおそい日本人民の統治しやすさについて談笑しながら彼等の国際的なハイボールを傾ける姿を、わたしたち日本の女は、やはり黙ってほほえんで見てすぎなければならないというのだろうか。[#地付き]〔一九四八年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「女性線」
1948(昭和23)年7月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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