は、まだ根本から、民主化されきっていず、官僚的だったり、半封建的だったりするため、そして外国生活をした本人そのひとの気分にそういうものがのこっているところもあって、その人の権威は単純にその職域で見聞と経験のひろい人というだけでなくなって来る。自分として「偉くなったようで」あろうし、また偉くなったような位置におかれ、民主的な要素の少い社会ではどうしてもそのことが、支配的権力の側にひき入れられやすくしている。
 この実際は、朝鮮がもと日本の植民地だったときの事情をみればよくわかる。日本語を強制された朝鮮人民の生活の中で、日本語が話せ、日本字のかける朝鮮人が、総督府の官吏になり、巡査になり、収税吏になって、今日になってみれば、同胞の自由を抑え搾る仕事に協力していた。しかし当時、朝鮮で権力をもっていた日本官吏や事業家は、その朝鮮人が日本語を話すという便利さから、何か特権めいた扱いかたをした。その国の人民生活にほんとの独立とそれによる国際性のない場合、一つの外国語を知っているということが、その人を屈辱的な存在とすることがわかる。
 中国の作家郁達夫の死は、またちがった一つの悲劇であった。日本語のできる郁達夫はビルマの辺鄙な村にかくれて戦禍をさけていた。遂にそこへも日本軍が侵入して来た。或る日、往来で土地の住民が虐殺されかかっているのを見て、郁達夫の唇から思わず日本語がほとばしった。土地の住民の命はそのために救われ、郁達夫は、その日本語のため、侵略軍のために働かされることとなった。一九四五年八月が来てその土地の憲兵隊が敗退してひきあげるとき彼等は郁達夫に日本語がわかり、彼等の侵略行動の目撃者、戦犯の証人であるということを恐怖した。彼等は郁達夫を殺した。
 郁達夫の物語は、わたしたちにジャンバルジャンを思い出させ、レマルクの「凱旋門」の主人公ラヴィックが人間らしくまた医者らしい咄嗟の行動で往来の負傷者を救ったことからパリを逃れなければならなかった情景を思い起させる。
 中里恒子氏の「マリアンヌ」その他の小説をよんだ人は、ファシズムの日本で国際結婚をして日本に来ていた外国の男女の人々、その混血児たちの生活がどんなに苦しく、非人間的であったかを十分想像するだろう。上品に語られずにいる苦しさを思いやると肌の粟だつ思いがする。またシュールの画家岡本太郎氏のように、十五六歳からの十余年をパ
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