るのである」(吉田三市郎弁護人、速記録による)。稲本錠之助弁護人は、フランス大革命当時の哲学者ジョセフ・ジューベールの言葉をひいて弁論した。「一体この事件がランプの光の前で検討されたものならばまだしも、今朝来被告人等の言うことをきいておりますと、ランプの光にも行かない。螢の光ぐらい。私は必ずしも真黒だ、まっくらやみの中だということは申しませんが、何にいたせ、明るい光の下において検討された事件でないということを、今朝来、被告人等の片言隻語の中から受取ったのであります」(速記録による)そして大岡越前守が「あの封建時代、みずから捕え、みずから取調べるというもっての外の裁判制度の時代ですら、今日三尺の児童も大岡裁き、大岡裁判といえば存ぜないものがないくらいの名をのこされた」(速記録による)その誠意、見識をもって本件をあつかってほしいと要望している。正木昊弁護人は同日「私は共産党には反対であるが、それよりも白いものを黒いとすることにはいっそう反対である。白いものを権力をもって黒いとすることは人道に反することである。(中略)権力を用いて白を黒にするなどということは全世界の人類を侮べつするものである。私はヒューマニストとしてこれと闘わなければならないと思い、よろこんで三鷹の弁護に立つものであります」という談話を発表した。
それにしても、この日、「被告の事情というものはほんとうにしらべにあたった検事さんが一番知っておりますが、そのときの表情や態度によってわかると思いますから、できればしらべにあたられた検事さんが一人でもよけいに出廷されることを望んでおります」(速記録による)といった竹内被告の立場はどういう複雑ないきさつをはらんでいるものだったのだろうか。三人の法廷検事のうち、取調べに参加していたのは天野検事一人である。検事一体ということがあって、取調べにあたっての主任検事であった田中検事ほか泉川、平山、富田、木村、屋代、磯山の諸検事は公判廷から姿を消している。
八月一日に検挙された竹内被告が、三鷹の電車暴走を単独行為として自供したのは八月二十日のことであった。八月二十六日、府中刑務所で、今野、岡村弁護人(当時竹内にも自由法曹団弁護人がついていた)が竹内被告に面会したとき、竹内被告との間に左のような問答が交わされた。
「わたしは先日、拘留開示の前におあいしたとき、ぜんぜんこの事件には関係ないといいましたが、それはウソで、じつは私が電車を走らせたのです」それに対して、今野弁護人が質問した。「それでは先日、なぜウソをいったのですか。」答「私は飯田さんたちがすぐ釈放され、私もかくしとおしておけると信じてましたから、がんばろうと思ってウソをいったのです。ところがこの事件はまったく私一人でやったことで、誰とも相談していないのに、田中検事さんや平山検事さんは八月十五日ごろからと思いますが」横谷、外山そのほか四人も五人もが、謀議に参加したと本人がのべていると「何日も何日も、くりかえしくりかえし夜おそくまでせめたてましたので、私は、絶対にそれらの人たちと一緒にやった事実はなく、田中検事さんの取調べは、強引で、謀議一方におしつけようとするので、このような取調べを横谷たちがうけてたえられなくなって」「私がかくしとおすことによって、罪のない人たちが無実の罪におとしいれられては大変だ、この際正直にいってしまわなければと決心し、たしか本月二十日の夜九時ごろから平山検事に、くわしく話しました。なお、平山検事さんらは『いくら否認しても、新刑事訴訟法では認定で罰することができる。この事件には外山、田代、伊藤、清水も――あとから飯田も共同謀議に参加している』といいました。これはまったく事実でないことですが、しかし」「証拠がなくても認定できるといわれると」「何もやっていない横谷やほかの人たちまで無実の罪をきせられるようなことがあっては、なんとしても申しわけなく、それを考えるといても立ってもいられなくなったのです。」そういって竹内被告は、七月十五日事件当夜のてんまつを詳しく語った。「まったく単純な労働者の怒りを見せて、当局を反省させてやろうという気持と、電車を動けなくすれば全国的なストに入り、当局もかならずまけるにちがいないと信じてやったのですが、あんな悲惨な結果がわかっていたら、もちろんするはずはなかったのです」「私は運転手を五、六年した経験で、あの電車は当時の状況からみて、『一たん停止』の辺で脱線すると信じ、本線その他に危害がおこるとは考えていませんでした。」この面会で、竹内被告は一人の労働者として、また妻の心を思いやり、五人の子供たちの将来を考えると良人、父親として切ないこころのうちを告げた。(岡村弁護人の筆記による)
しかし、竹内被告は、神崎、相川両検事の働きかけによって九月にはいってから動揺しはじめ、加速度的にその動揺がつよまって、他の被告たちとの共同正犯を主張する態度にかわって行った。そして十月二十四日、五日と月末の二度に八王子地検の相川判事によって他被告との関係について「宣誓の上供述して」それを調書にとられた。第一回公判をひかえた十一月二日に竹内被告は、思想を異にする弁護人を希望しないという理由で自由法曹団の人々をことわった。十一月四日の公判廷に鍛冶、丁野、栗林の三弁護士を選任して出廷した竹内被告は、三ヵ月ぶりに職場仲間の顔を見、その一人一人が立って、口々に検事の不当な取調べぶりを詳述して公訴取下げを要求するのをきいたとき、自身のうけた取調べにつき、自身のおかれた立場につき、何かの感想をもたずにはいられなかったろう。
読売新聞は十一月十五日、ほとんど三面全部をつかって、「無人電車暴走の全貌」「自供、あやまてりわが労働運動、人間竹内の上申書」「横谷にそそのかされ二人で運転台へ」といういわゆる上申書の内容を公表した。
「私は実は十一月四日の第一回公判廷において、自分がどの線でゆくのが真実なのか、非常に悩みました。自分が無罪なのか。単独か、共同かという三つのどれもが記憶において錯綜していたからです。」
読者に奇異の感を与えるそのような冒頭の文句ではじまる、長文の上申書の終りは、かつての転向上申書の書式を思わせ、共産党への罵倒と「いかなる罰も天命であって人智のなすべからざるところと。そして後、新たなる魂をもって邦家のために生き抜こうと決心しています。未だに過去の労働運動(特に国鉄)をもって喋々するものがあるならば、それらは徒に事を構えて能事終れりとなす階級であって、かようなことはいわゆる革命家に任せておけばよいと考える。今や己の愚を悔るのみです」と結ばれている。そして竹内被告が書いたその上申書の冒頭に語られている錯交した本人の心理に似合わず鮮明、詳細な、現場見取図というものが、番号入りでのっているのである。
十一月十八日の第二回公判をひかえて、竹内被告の上申書は読売新聞独特の特色を発揮して出来るだけセンセーショナルに扱われたのであったが、翌十六日の朝の毎日新聞には「謎包む二つの手記」「変転する竹内被告の心境」というまた別の記事があらわれた。竹内被告は十一月十五日午後、栗林弁護士と府中刑務所で面会したとき、「私がさきに上申書で述べたことは調書にもとられているが、これがどのくらい本当なのか自分は分らなくなった。」と第一の手記と異る第二の手記を提出した。
「(前略)以上にのべたことはすでに検事調書にも相川判事の調書にもとられています。そして、それがどのくらい本当なのか、自分は多分に検事の尋問に調子を合わせて色々しゃべって来たのでわからなくなりました。(中略)一ヵ月あまりせめられて、」「自分一人で志願囚となるよりは」「皆で背負ってゆくのも同じだと妄想し出し、十月十三日、二日ほど拒んだのですが、紙と鉛筆とをわたされ私一人の自白と同じような気持からスラスラ書いてしまったのです。翌日、自分一人ならまだしも仲間まで関係づけたことが悔いられ、さんざんたのんで撤回方を願ったが」「私の生命といわんよりは魂を救うために上申書は取消して下さいといったが駄目でした。」「八月二十日、私一人犯行説でも、私は自分の想像の供述に対し、検事の言により度々調子を合わせて述べているのです。」(一一・一六、毎日新聞)被告竹内は「新聞で見て大体検挙の想像で考えていた」ことや当直で見ていた当日の配車状態などから、供述しているのだった。「私は自分で自ら墓穴を掘りつつあるような気がします」「今でも検事に述べたことについては覆せる気持はありますが、何しろ相川判事に調書をとられたのが一番なやみの種です」(同日、同紙)
相ついで発表され、しかも正反対の内容をもつ竹内被告の二つの手記のよびおこした波瀾によって、十一月十八日の第二回公判廷には、ひとしおの緊張がみなぎった。
去る四日の公判第一日に、満廷の公訴取消しの要求に対して、一言も発せずじまいだった検事団は、この日の公判廷では、へき頭、勝田主任検事が立って、公訴の適法であることを強調し「もしこの発言にかかわらず前回の如きことが行われる場合は、これに関し異議をのべ、必要な発言を行うことを附加するものである」(十九日、毎日)といった。この日の午前の法廷では、前回に引つづき公訴を取消す要求が、行われたのであるが、検事連は、自席に立ちあがり、十五回にわたって鈴木特別弁護人の発言を妨害した。執拗に裁判長にくり下る勝田検事に裁判長「発言にたいする異議はいいけれども、発言しているものに対して妨害してはいけない。」(公判速記)弁護士団の長老長野国助弁護人も「とくに検察団にのぞみたい」と「審理中に検察団はあたかも妨害になるような発言をされている」のは「裁判所を信任されていないことである」云々とたしなめた。
ニッポン・タイムスは、これらの状況を「茶番になった第二回公判」として、「法廷は小型の議会になった」と書いている。
午後、川口検事によって起訴状が読上げられた。その起訴状の内容がどういうものであるかということは、公判速記がありのままに記録している。
裁判長「(前略)偽証の方で、このほか数名とあるが、それがわかっておりますならばその内容をいって下さい。」天野検事が、横谷、外山、清水、宮原、伊藤、田代の名をあげる。「以上です。」
裁判長「喜屋武ほか十数名とあるが、どうですか」天野検事、竹内被告をのぞく十一名のほかに五名の名をあげ「以上であろうと思います。」
布施弁護人が、各被告の起訴の日づけが、まちまちである点、その他曖昧に書かれている個処について質問をはじめた。「これは事件の内容全貌についての見通しがあって起訴が行われたのでしょうか。そのことをまずききたい。起訴の第一次の段階で事件の全貌がいかにつかまれていたか、はっきりしていたかについて、また発車が人意か共犯か否かについても起訴状は明かでない。」
栗林弁護人も竹内被告の起訴状について共謀、謀議などの言葉の意味についてたずねる。
裁判長「今わかりませんか。共謀の日時、場所は。」
勝田検事「七月十日から十五日ごろまで。三鷹電車区構内の整備第二詰所としようとしている古電車や、労働組合の事務所又はその附近、それから高相方などにおいて、よりより数回にわたって謀議が行われておりました。」(被告席失笑)
裁判長「飯田被告と他人と共謀の上とあるが、起訴当時ははっきりしていなかったかどうか。」
勝田検事「八月一日に第一次に起訴した七名を検挙しておりましたので、この共犯関係は分っておりました。」
裁判長「八月八日の起訴の時には、大体分っていたというのですね。」
勝田検事「検挙しておりましたから共犯だと思って起訴しました。」
林弁護人は共謀の事実、場所、人物について説明を求めた。それに対する勝田検事の答につづけて、
裁判長「今の点、もう少し具体的になりませんか。」
勝田検事「かような計画は、全体の雰囲気からでてきたものであります。被告人が一堂に会してやったんじゃありません。(被告席身体をゆすって笑い出す)(以下
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