たのだ、という淡い快感があるばかりなのである。
 自分で働き、自分の汗の価を知っている若い娘さんにとって、この一種の社会的な快感は誇りにも通じるところがあるだろうとも思われる。けれども、本当に聰明な娘たちは、そのぼんやりした快感や裏づけられた誇りに、何か安心ならぬものがひそんでいることを感じとっているにちがいない。
 病気しているひとが、ひとも病気になったときいて、気の毒がりながら何となし自分だけではないという気休めを感じることがある。その心理は、無理ないことかもしれないけれども、さらに心の高い人だったらおそらく、それをきいて小さい気休めを感じるより強く深い真心で、それはいけない、一日も早くなおって下さい、というだろうし、その方が人間としてましな態度だということを、誰しも知っていると思う。
 贅沢禁止のこととこの場合と全く同じということはできまいが、自分たちばかりではないのだ、という気休めで逆に日々の生活の悪条件に馴れて安心してしまうことがあるとすると、それは社会の本当の進歩のために、悲しむべきことになるだろうと思う。
 どんな困難にもたえる力は必要である。贅沢はもとよりいらないことで
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