立つ作家だろうか。もちろんわたしたちはそう思っていないのである。
民主主義文学は、小市民の生活感情や現実のうけとりかたにたってかく作家も疎外しない。しかし、それは、その人なりの世界のうちに暴力的な支配や、戦争や、一般人間性をころす力への抗議がふくまれているという時に、民主的な方向へのつながりができるのである。苦悩の身ぶり、宿命の観念にはまりこみきれないもがきの手が、解放にたたかう人々の手と、むすばれてゆくのである。その人その人が、主観的な枠のなかで、その人としては本気に追求しているという、そのことだけに評価はない。ここのところを、わたしたちとして、問題にしなければならないのは、第三回大会以来今日でも、まだ民主主義文学運動の中には、多様で、具体的で、しかも歴史の課題との角度を明瞭にした批評の態度が確立しているとは云えないからである。そして、このことは徳永、小田切の論争その他を、個人的に対立した見解の応酬に陥らせ勝であるばかりか「勤労者文学」の規定そのもののあいまいさを客観的に見極めて、民主主義文学運動全体を発展させてゆく評価のよりどころさえも見失わせる危険をもっているからである。
現
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