極的な方法が労働階級の実力として身につけられることである。座談会をみてもこんにち自覚した労働者にとって民主的文学の創造の問題は、題材主義から成長し、プロレタリアの善玉悪玉からぬけ出ていることがわかる。作品のうちに目前の現象を描くばかりでなくその背後の奥ふかい社会的本質までを描こうと欲しられており、それを、階級的人間の実感によって描こうとのぞまれて来ている。だが、そこには、座談会にふれられているように階級人として未成熟であるという自覚がギャップとしてあるのである。こういう段階にまで育って来ている民主的文学の潮さきを「見本」をまつ気分に固定させるようなことがあれば、それは、わたしたちが我から人民の民主的可能性を窒息させることにひとしい。また同じことの別のあらわれとして、ある作品の民主的文学としての本質を理解し得ない働く人が、題材からだけみて、その世界は私たちの世界でない、と否定することまでしかできない場合、批評家がそのままその意見に追随して、だから働くものの文学は働くものの手で、と外から激励するだけでも、労働者階級の文学が育ってゆくことはできない。「どういう風に生きてゆくか」という実生活の
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