閣のファシズムと戦争への危険をむきだした政策。これらの三つの要素がからみあって、民主的文化運動の一部に、あおり[#「あおり」に傍点]が生じている。わたしたちは、リアリスティックに、この点を見きわめる必要があると思う。「文学サークルの現状に対して」という投書にもあらわれているように、労働者、小市民勤労者、農民、革命的インテリゲンツィアとしての学生までを、「勤労者文学」にこめて考えていても、生活の動きはきびしいから、でこぼこはひどくなる。労働者の文学は、プロレタリアートの文学として前衛の文学までをふくむが、「勤労者」をその線へ一括することは無理だし、小市民作家を、もと同伴者作家と見たように「吸収し[#「吸収し」に傍点]、手をつなぐ」ものとしてみることにも無理がある。それぞれのもちもの(文学的伝統をふくんで)を生かして、その上での前進を、共通の重点をとおして見てゆくという複雑さをおそれない方法がとられないと、それはゆたかに縦横むじんに育たない。いまのところやせている民主文学が、ぐっとのびるモメントは、ここにあると思えるのである。
 第二回文化会議で報告されているように、職場の文化活動サークルなどはすでにいろいろ困難に面し、とくに、組合が反民主的勢力に占められているとき、サークルの動きは、微妙である、というような課題が生じている。この際、一年前どおりの「勤労者文学」の考えかたのまま先へつづけると、そのある部分が思いもかけない左へゆきすぎて、うまいこと民主戦線分裂の挑発にのせられまいものでもない。サークルが昔の悲劇をくりかえしたり、文化団体の独自な活動が組合の宣・教に解消され、「文学は政治に従属する、」という言葉の、しごく粗雑な理解が、民主主義文学運動をこんらんさせないものでもない。『文化革命』第二号をよんだひとは、この注目が、根拠をもたないものではないことを理解されるだろう。わたしたちは、自分たちの運動そのものも発展的なリアリズムでつかむべきだと思う。『大衆クラブ』で菊田一夫と徳永直の間に往復された手紙をよんだ。そして徳永直が、民主的運動におけるインテリゲンツィアと労働者との連帯性について前進的に、客観的に語っているのをよんだ。そのことからも「勤労者文学」がさらに複雑でまた統一的な民主主義文学運動のうちにつよく展開する可能が感じられる。はっきり労働者の文学として、ふっきる部
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