べれば、現代文学の傾斜が明瞭にわかる。そして、この「殺意」と「三木清における人間の研究」「たぬき退治」とは、それのかかれる精神の状況において連関がある。このような作品は、決して民主的な精神が率直に評価されている時代には書かれもしないしジャーナリズムが買いもしない。
文学に関心をもつすべての人々は、こんにちの日本文学の多くがこれでも文学であろうかという疑いを抱いている。人間として生きている何かの意味の感じられる文学をもとめている。小説は、退屈まぎらしによむものとしている人々でも、まずいタバコを軽蔑するように、どれもこれも同じようなジャーナリズム文学には、うんざりしているのである。
文学がボロイ仕事でないと理解されることはむしろ理の当然である。そして、商業主義と文学の修業とは両立しがたい本質の差をもっているから、金にならなくても、文学の勉強はやめられない意味で、同人雑誌への関心がたかまったことも、たしかに「わるくない現象」である。『新日本文学』の編集委員会は、原稿料の極端にやすいこと、或は金の出せないことについて、従来のような経済主義一点ばりで非難され、冷視されることも、いくらか減って
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