化」の中で、ソヴェト同盟の権力の下では同人雑誌を出すことを許されないということを知った、「同人雑誌こそ新しい文学の唯一の温床であるのに、それを欠く革命後のソ連文学がシーモノフにせよ」「『虹』にせよ、全く大衆小説で第二のゴルキーが出ないのも、かかる出版の自由(すなわち不自由)のもたらす成果であろう」と結ばれている。
『新日本文学』六月号「サガレンの文化――転換期の一断面」埴原一丞の文章の小原壮助に着目されている部分ではこうかいている。一九四七年、豊原市に二十人位の文学志望者があって、新聞『新生命』を中心に樺太文学協会をつくろうということになった。第一回会合が新生命社でもたれ、「サガレン文学」を出すことにきめたが、新聞社主筆ミシャロフ少佐が、それを禁じた。理由をきくと次のように答えられた。「それは同人雑誌の形式です。ロシアにも以前、革命前にはありましたが、今はありません。芸術は社会のもので、個人のものでありません。同人雑誌は個人のものにする恐れがあります」
 そして、六月号の『新日本文学』を読んでいる人に、くだくだしくくりかえすまでもなく、埴原一丞は、ミシャロフ少佐の説明として、資本主義の下での出版と社会主義社会での出版の方法が、どのようにちがうかをのべている。労働者農民の文学好きな人たちは、どのようにして職場からの通信員となり、大衆場面で文学的成長をとげてゆくかという過程にふれている。サガレンでは経験されなかったらしいが、一九三〇年ごろからソヴェトでは自立劇団と少数民族劇団が年に一度モスクワで演劇オリムピアードを開いて、一年間の成果を評価しあう。そのような労農通信員《ラブセルコル》のルポルタージュ・コンクール、小説コンクールももたれ、優秀な作品は出版される。すべての出版物は、特別なもののほか、いつもルポルタージュや小説、詩のための場面を、大衆の中からの執筆者に向って開放している。現代の若い作家の大多数は、そのような道をとおって成長して来ている。
 小原壮助は、社会主義社会では大衆的な場面を通って、一人の若ものが作家として成長して来るというプロセスに対して全然懐疑的であり、否定的である。「大衆の批判というものがどんなものか、我国の場合で考えても、志賀直哉と吉川英治を国民大衆の討議にかければ、後者が選ばれること論をまたない」と。
 小原壮助が、社会機構や生活感情のすべての
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