美な角度で、女主人のこころもちが裸婦に通っていた。その置かれかたで、女主人の背後にある裸婦の無邪気なゆたかさが、芸術としてすらりと鑑賞されるのだった。
村山知義さんの自筆の插画をみていて、わたしは、このマイヨールの「とげ」の飾られていた工合を思い浮べた。「結婚」のさし絵は男が描いたものだという点にこだわって考えないにしろ、一般に、いまの人間感覚のうちに、文化の感覚のうちにこういうパンティーなど登場させたらそれを前から描くという風な流行がありすぎると思う。そういう荒っぽい、むき出しな動物的な傾向が、ジャーナリズムの上に濁流をなしている。文学作品にも、同じ傾向がある。それが反封建といわれている。しかし、性の問題を、性に局限して理解して、だから人前に出せないとしたのが封建思想であった。きょう、性の興味や問題を、文学においても絵でも人間問題の一つのくさりとして扱わないで、性に集中して露出させて扱っているのは、とりも直さずに日本人の人間的感覚のなかに、どんなにまだ封建的な性を性だけに表現するみじめさがつよくのこっているかという証拠である。
この間「美女と野獣」をみて、接ぷんを人間の心のあらわ
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