来るのである。
 こうして、実に様々な結婚への態度の一端を眺めわたすと、あらゆる場合を通して一つの気分が貫いていることを感じる。それは、結婚という言葉が、それぞれの実質の高さ低さにかかわらず、何か人生的な落着きという感じを誘い出す点である。誰々さんが結婚するそうよ。まあ、そうお、「誰と?」という好奇心の起る前に、ききての胸にぼんやりと映るのは、それであのひとも落着くという一種の感じではなかろうか。結婚ということを便宜的に考えていない人たちの場合、それは一層感じられるように思う。それはよかったわね。そういう慶びの言葉が、その感じで裏づけられてもいるのである。仕事をもっている男の人たちは、それで落着けばあの男の仕事も一層よくなるだろう。という祝福の形をとった。女で、職業や仕事をもっている人のとき、私たちは、どうせ楽なのではないから、とこの現実の裡で家庭と仕事を両立させて行こうとする女の困難さをあからさまに見た上で、大変だろうがという反面に、でもね、と認めるものがあったのである。
 結婚の幸福というものが五彩の雲につつまれて描かれているロマンティック時代は、時代として過ぎていると思う。反対に、或る種の若い女のひとは結婚の現実性を実利性ととりちがえ、その実利性をも一番低級な物質の面に根拠をおき、結婚は事務《ビジネス》と云い、商取引というように云うが、今流行の比喩で云えば、平和産業であるにちがいないそういう商取引が、果して、今日の現実で安固な土台に立っていると云えるだろうか。
 結婚生活の一番地味なつつましい共通性であった落着きの感じが、結婚しているものにも、これから結婚しようとしている人々の心持にも失われ、動揺されて来ている。これは、今日の感情として、世界的なものであると思われる。早婚が奨励されていること、子供もたくさん生むようにとすすめられていること、結婚して暮すべき新天地というものが満州や支那へまでひろがって考えにのぼって来ること。そういう声々の発せられるところは求心的であるが、心へ及す形は遠心的で何だか落着けない。子供をたくさんと云っても、女として耳に響いて来る可愛い声々は、そのたくさんの子供たちの丈夫なことを願っていて、いろいろの物資のこともすぐ念頭に浮ぶ。その間にはやはり落着けないものがある。たくさんの幼い子供をもった自分たちと、その父親としての良人との境遇が変化
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