いよ》浮世の波にもまれる始まり、苦労への出発というように見て、それを励したり力づけたりした。その時分苦労と考えられていたことの内容は、女はどうせ他家の者とならなければならないという運命のうけ入れであり、女はつまるところ三界に家なし、と云われた境遇の踏み出しとしてであったと思う。
 今日猶、娘を縁づけます、という言葉で表現する親たちでも、親の選んだ対手を娘が好きに思う、好きと思わなくても厭と思わないという程度には、娘の感情を立てて来ていると思う。娘の恋愛やそれを通しての結婚の申出には極端に警戒している親は、自分が選ぶとなると、世間智を万全に活動させて、娘と親とが共々に工合いいようにと気をくばる。そして、その工合いいという判断はいつもとかく事大主義であるのが通例である。今日ならば、今日華やかに見える事業、地位、或は華やかになりそうと思われる方角へ、その選択をもってゆく。そういう親は、その人々なりの善意からではあっても、やはり娘一人を家から好条件に片づけ、更にその良人との生活でもちゃんと片づいて置かれたところに落着くことを目的としているわけである。
 自分たちの生涯の問題として、結婚をそういう風には考えていない若い女のひとたちも亦決して少くない。自分たちを結婚にまで導いてゆくだけの共感、愛情、人生への態度の共通性を眼目として、そういう対手を待ち求めているひとも多い。
 更に、職業をもって自活して暮している若い女のひとたちの結婚に対している心持は、相当複雑であると思う。或る人は何か一人で風雨にさらされているような明暮れに疲れを感じ、同じような境遇の対手を見つけて互に寄り添ったところのある生活に入りたいという希望をもっている人もあるだろう。ただ寄り添うばかりでなく、二人よったことで二つの人間としての善意をもっと強いものにし、世俗的な意味ばかりでなしに生活の向上をさせて行きたいと思う人々も多いに相異ない。結婚によって自分の職業もやめ、一躍有閑夫人めいた生活に入りたいという希望をもっている人が、今日のような浮動した社会事情の時はその夢を実現する可能が意外のところにあるのかもしれない。そういう人生の態度を認めている人たちは、周囲からの軽蔑を自分の心には嫉妬だと云いきかせることも平気であろうし、現実としてはその身のまわりに金銭や地位に対して卑屈になり得る人たちを賑やかに集めることも出
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