フワ風に煽らせながら、勇壮に釣に出かける。彼女を堀に誘うのは、噂に聞いた鯉だ。誰も釣針を垂れないからこの堀には立派な鯉がいますよ、と或る人がいった。不幸なことに、彼女は鯉の洗いが大好きだ。
「さあ、今晩は洗いに鯉こくよ」
 絶大な希望で彼女は出かけるのだ。私は、羨みながら机の前に遺っている。よほどして、日によると、数間彼方の釣堀から、遽しい呼び声が起る。
「おーい、早く、バケツ」
 私は、あわてふためいて台どころに降り、バケツに水を汲み込み、そとへ駆け出す。水がこぼれるから早くは駆けられない。体の肥って丸い、髪をぐるぐる巻にした私は、ドン・キホーテのところへと憐れに取急ぐサンチョ・パンザのように、瘠せて、脊高く勇ましい彼女に向って駆けつけるのだ――フダーヤは始めから釣れた魚を放すバケツは持ってゆかない。何故なら、彼女は賢くて、いくら波々水を張ったバケツを傍に置いても、水がぬるむばかりで放つ魚は殆ど決して針にかからないことを知っているから。そして、またいつものっそりとしている私を、たまにびっくりさせ、駆け出させたのは衛生上にもよいと知っているから。――四間に三間ばかりの釣堀に、午後彼女の
前へ 次へ
全14ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング