在住の日本人にあらわに思い知らされた敗亡する侵略者としての足どりは、それらの人々にいってみればさか恨み[#「さか恨み」に傍点]の感情をもたせたとも思われる。日本の軍国主義にだまされた自身のいきさつを思うよりも、こんな目にあうその苦しさを、敗戦と、いまは屈従から立って自分たちをかこむ土着民への恐怖と憎悪の感情にこらして、引あげの辛苦を経験した。これら幾十万の人々、特に引あげてきた婦人たちの身に刻まれているのは戦争の実体を究明しようとする意志よりも、引あげの日々を貫いた苦しさ、不如意、不安であろう。
「流れる星は生きている」の著者が良人とわかれて三人の幼子をひきつれていた若い母であったことは、引あげの辛苦もなみなみでないものにした。著者がその惨苦に耐えた火のような生きる意欲そのもののはげしさ、生存のためにむきだしにたたかった、それなりの率直さで、現象から現象へ、エピソードからエピソードへと押しきる流れで語られている。
 読者は次々と展開する插話にひきいれられて、口をはさむひまなく読むのであるが、さて、読み終って、わたしたちの心に、落付かない感じがのこされるのはどうしてだろう。
 筆者は率直である。偽善的でない。荒々しい条件におかれた自身の荒々しい所行(「三百円儲けた話」)の物語といっしょに、恐怖をもって臆測されている北鮮の治安が実際にはよくて、保安隊の若もの、土地の人々の親切、ソ同盟の兵士の素朴な人間ぽさなども、それがそうであったように語られている。北鮮の新幕から三十八度線をこえて開城につくまでの徒歩行進の辛苦の描写は強烈で、一篇のクライマックスとなっているのであるが、著者は、新京から引揚げの開始された八月九日の夜から一ヵ年の苦しい月日のうちに起ったできごとを、その身でぶつかり、たたかい、つきぬけ、かきのけてきたことがらとしての範囲に集注して、あとはきりすてている。宜川の集団の住居の雪の夜、延吉《エンキチ》という西北方の町から、半死半生でたどりついた三人の良人たちについても、そのおそろしい憔悴のさまは描かれているが、延吉というソ同盟軍の町につれられていった三人が、なぜ、どうやってそこにあらわれたのか、当然わかっていただろう事実は、ふれられていない。
 引あげの人たちそして著者自身、戦争の実体をどう批判する感情におかれていたか。そういうことについては一切語ること考えることがさけられている。生のために不屈にたたかう能力を小柄な全身にみなぎらしている著者は、その体のたけとはばとで解決しきれないような問題は、みんなきってすてている。したがって、この引あげの辛酸な事実の歴史的背景となり悲惨の原因となっている日本の軍国主義や満州侵略、そこに巻きこまれた市民の不幸の意味などは、一切考えてみようとされていないのである。
 これらの特徴は、どれもこのごろの記録文学の性格をそなえている。まじめに考えさせるようなモメントは重苦しいとしてみんなきりすてて、スリル中心に読者をひっぱって行って、一定の雰囲気の影響のもとにおくジャーナリズムの方法が、「一生一代の勇敢なる冒険『創作を書く』ことを思いついた」著者の文筆におのずからそなわっていたというわけでもあろうか。
 跋を見れば、きょうの著者の日々は官舎に暮す小柄な軽口をいう無邪気な若い主婦の暮しである。
 あの八月九日の夜、新京から真先に遁走を開始した関東軍とその家族とは、三人の子をつれて徒歩でステーションに向う著者にトラックの砂塵をあびせ、列車に優先してのりこみ、ときには飛行機をとばして行方のわからない高官の家族の所在をさがさせまでした。が、八月十五日から数日たってやっと降伏した知らせが届いた満蒙奥地の開拓移民団の正直な老若男女が、ことの意外におどろいて数百名の生死を賭す団の進退をうちあわせようと駆けつけたときには、もうどこにも関東軍の影はなかった。そのために、うちすてられた開拓団のいくつかは、数百名をひとかたまりとして女から子供まで、絶滅させられた。満蒙奥地の住民のそのような怨み、憎悪が開拓団に向けられた理由こそは、関東軍が絶対命令で実行させつづけた住民からの収奪であったのに。きょうになれば、著者の耳目にこのいきさつもつたわっていよう。
 とるものもとりあえず新京を脱出した八月九日という日は、十五日より六日も前で、関東軍、役人たちの遁走前奏夜曲であったということを著者は、なにかの思いでこんにち、かえりみるときもあるだろう。新京にいてさえ、一般住民は不意うちをくい、おいていきぼりにあった。関東軍の威勢は日本の運命を左右し一人一人の首ねっこを押えていただけに、この歴史的事実にたいして、一般の人々の抱いている人間的道義的侮蔑は深く鋭いものである。日本の武士道とやまとだましいのはりこ[#「はりこ」に傍点]の面《め
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