しかありようない現代のおそろしい兵器による戦争そのものがとりのぞかれようとしないならば、それにつづく事態ばかりをせめることは、歴史の発展のない、民族的自虐でさえある。歴史の現実にたいしてはっきりと目を開いていないそのような受け身の状態は、それなりまたずるずるとわたしたちの生活を犠牲にしてしまう危険をふくんでいる。すべての社会現象の全体の関係を人民生活の前に開いてみせず、任意な現象だけをきりとって、さまざまの粉飾でしめした方法こそ、天皇の神聖をかざした軍部のやりかたそのものであった。条理ある社会関係の総体の見とおしを許さず、きれぎれの認識で混乱させた力こそ、ファシズムの本質ではなかったろうか。
記録文学の流行は、出版界の不安定性とまじり合って、各出版社を記録文学のヒットさがしに熱中させた。花山信勝の「平和の発見」は軍国主義のあらわな鼓舞としてはげしく非難された。その「平和の発見」は出版社の人々と著者の合作でつくられたものであったことも知られた。参議院の考査委員会は、永井隆氏を表彰しようという案を発表したが、六月十二日、七月三日(一九四九年)の週刊朝日は、カソリック教徒であるこのひとの四つの著書が、それぞれにちがった筆者であるというようにいっている。
記録文学のあるものは、クラブチェンコの「わたしは自由を選んだ」を筆頭として、国際的にも一つの注目すべき反民主的利用の道をひらかれてきた。わたしたちは、明日のよりよい社会のために、書かれているその範囲のことにうそはないという程度の記録文学から、一歩すすんで、それが社会の歴史の諸関係の事実を語っているということのできる記録文学をもとめる。
「流れる星は生きている」(藤原てい著)をよんで、この生活力の旺盛な若い母が三人のおさない子をつれて新京から引あげてきた物語が、ひろくよまれるわけもうなずけた。軍国主義の敗北とともに、満州、中国、朝鮮、台湾、樺太、さらに遠い南の果てから内地へ引きあげてこなければならなかった日本人男女は幾十万人あったろうか。台湾、朝鮮のような植民地または中国、満州のような半植民地に発展していた[#「発展していた」に傍点]人たちは、その土地と社会が本来は他の民族に属するものであって、そこで日本人は侵略者の立場をもっている事実を忘れた、優越感に安住していたのではなかったろうか。
一九四五年八月十五日から植民地
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