ん》のうらの、醜さ、卑劣さとして、世界的に唾棄されている。軍につながる高級官僚たちが素早く我をかばった保身の術も、同情をもってみられてはいない。
いま新京を遁走するという八月九日の夜、観象台の課長であった著者の良人が、責任感から、他の所員を引揚団の団長にして自分は一応残留したという事実に、読者は、そのときその人の妻が良人に向っていった言葉とは、ちがった行為の価値を見いだす。妻はおどろきと悲しみにとり乱して、良人が見栄とていさい[#「ていさい」に傍点]と優越感のために、ただ一つところで働いていたというだけの人々のために、自分の家族を見すてるつもりか、となじった。その感じかたのままで話せば、きょうこの著者は、ただ同じところにつとめているというだけの人々が住んでいる官舎で、住宅難も整理の不安もなく暮しているということにもなるだろう。そして、それは、妻にののしられたにかかわらず科学者として職務の責任感から残留もした良人によって保たれた地位が妻にもたらしている条件である。もしこの科学者、官吏が命を失っていたらどうであろう。その人の努力、妻たる人の奮闘がどのようであろうとも、三人の子供をつれた未亡人に、あてがわれる官舎はあるのだろうか。同じところにつとめていたというだけの人々――これはわたしたちに息をつめさせる言葉である。
「流れる星は生きている」のなかに、一度ならず二度ならずいまわしさをもって叫ばれているのは「日本人の利己主義」という言葉である。利己主義が日本人という民族の属性なのだろうか。そうは思えない。それが、生存する環境の悪条件に左右される自己防衛の牙《きば》であることは、著者そのひとが脱出の夜良人に向っていった言葉であきらかにされている。日夜顔をあわせている女同士で自分が八百円に売ってやった衣類の、二百円を天びきに相手にわたして、何も知らないその人が礼にとさしだす百円ももらい「三百円儲けた話」は、きょうの著者の心に、明るいエピソードだろうか。人間の心は、こういうときはこうもなるものです、と居直ってすむものならば、非人道的な捕虜虐待で日本の軍人が戦争犯罪に問われる道義的根拠は失われる。最近ヒットしたルポルタージュの選手三人の座談会で、著者は、いよいよとなったら身を売っても仕方がない、売るなら高く売ろうと思いましたと語っている。そこまでそういう言葉で語るひとが、宜川のソ
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング