からの批評は、階級的陣営が違うと、もういうことはきまっていると思わせる狭いところがあった。ある時は高飛車なところもある。
ボルシェビキ的批評というものは、本質においてそうではない。
どっちの陣営の作品でも、それをひろい客観的条件の前にはっきり浮き上らせて、見なおさせ、比べ、それが評価されるべき評価をうけていることを、静かにつよく感銘させるのが、本物の批評である。
作品の欠点や、チャチなところだけをつまみだして、パンパンパンと平手うちにやっつける批評ぶりは、本当のプロレタリア的批評ではない。溜飲はさがるかもしれないが弁証法的でないし、建設的でない。
大森義太郎氏の文学作品批評はきびきびしていても、そういう点でボルシェビキ的忍耐ある建設力を欠いているのだ。橋本英吉が『ナップ』へ三ヵ月ばかり批評を書き、個々の点では異論あるとしても、態度で、われわれに多くのものを教えた。[#地付き]〔一九三一年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング