、ホントに生気ある文化的価値をふき込まれるだろうか?
思うに、それは姑息である。
行きつまったブルジョア文壇の生産力を、新しいプロレタリア文学の作品が圧倒しつつある。従って文芸批評でもプロレタリア文芸批評が、もっと広汎に研究され、活溌に行われなければならないのだと思う。
真実に強い文化的基準と新しく見なおした目標で批評がされるようになれば月評は別ものになる。
では、そのプロレタリア文学批評とは、どんなものか?
第一に、どんな小さいどの陣営の作品をとりあげた場合でも、その批評をよむと、ハハア、小説を読むときはこういうところが急所なんだナと納得のゆくように批評を書いて行くことである。
高度な理論に関するものでも、もしその人が全体の関係においてそれをよく理解し、腹にいれていれば、わかり易く説明することができるものである。
まして、作品評の場合、アカデミックな字を並べることは、ほとんど必要ない。
一つの文学作品についての批評をよく読んでおくと、この次、また別な作品を読む場合にどう読めばいいかが分る。そのくらい親切な批評がわれわれには欲しい。
ブルジョア批評は読者啓蒙を等閑に
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