である場合、画面に手を入れて貰うことを余りこだわって考えていないという話を聞いた。絵のことを云っている人が、婦人画家の芸術は相手によってひどく変るし、良人のいるときは却って良人よりいい絵を描くと思われた人が、良人と別れたり死なれたりするとパッタリ駄目になるということをあげていた。
 小説と絵とのちがいどころでもあろう。けれども、そういうような便宜な習慣とでも云える仕来りのために、婦人の洋画家の芸術成長の可能性やそれに対する期待が一般にひくめられているとすれば、やっぱり残念だと思う。まして、大局ではマイナスの作用をしつつ、目前ともかくプラスである協力者をもたず、或は良人と自身との画境をはっきり弁えて自力の成熟をしようと心がけている若い少数の婦人画家たちは、現在の常識ではどっちを向いても損であり苦しいということになる。
 日本ではマダムの道楽も、大体は未だ少女歌劇の女優をひいきにするに止っているのであろうか。

        波間

 東海道線を西の方から乗って来て、食堂などにいると、この頃の空気が声高な雑談の端々から濛々とあたりを罩《こ》めている。儲けたり、儲けそこなったりの話である。
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