くちなし
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)罩《こ》めて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三八年一月〕
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        童心

 うちから二人出征している。一人は世帯持ちであるがもう一人の方はひとり者だから、手紙をうち気付でよこす約束にして出発して行った。
 行ったきり永い間何のおとさたもなかった。四ヵ月ほどして、ハガキが来た。部隊の名と自分の姓の下に名を書かないで少尉としてあった。そういう書式があるということはそのときまで知らなかった。ハガキをうちかえして眺めながらこっちからやるときは名まで書いてやれることを胴忘れして、もし同じ部隊に同じ苗字のひとが二人いたらどうするのだろうかと不図懸念したりした。
 一枚のハガキが来たきりで、又暫く音信が絶えていたところ、先日不意に航空郵便が来た。白い角封筒で、航空便として軍事郵便である。何かあった。直覚的にそう思われた。だが、その手紙は私あてではないのである。受けとる筈のものはそのとき家にいなかった。もう少しで開けて読もうかとまで気がせいたが、何かあったとしたら猶更その手紙を書かれている当人が直接自分で第一に知りたかろうと、電話をかけた。
 航空便はやはり特別な手紙であった。負傷の知らせであった。不具になる程のことはなかったが、眉間と額との傷はのこるだろうと書いてあり、治療所のベッドから書かれたものであった。そして、その負傷のしかたが、突撃中ではなく、而もいかにもまざまざと戦地の中に置かれた身の姿を思い描かしめるような事情においてであった。謂わば平凡な文字の上に、暗い河北省の闇とそこに閃く光が濃く且つ鋭く走ったような事情である。
 あの顔に向う疵では、間の抜けた丹下左膳だねと笑いながら、すぐ註文の薬品その他を揃える仕度にとりかかった。
 今年四つになる男の児がいて、その児は河北の夜に倒れたものの又従弟とでもいうつづきあいにあたっている。慰問袋を女が三人あつまって拵えているわきでその児が見物していたが、やがて、それなんなの、ときいた。「アア坊知ってるだろう、ヤーホーじちちゃん。」「知ってるよ。」「ヤーホーじちちゃんがね、支那の兵隊さんにコツンやられて痛々いしたから、お薬送ってあげるのさ。」「フーン。」男の児は両方の白眼を凝らすように気をいれて何か考えている風だったが、やがて、オリーヴ色のスウェタアから出ている小さな頭をふって、ちがうよ、と云った。ちがうじゃないか、ヤーホーじちちゃんが支那の兵隊さん、コツンしたんだよ。と云った。その児の母親もそこにいて、そうじゃないんですよ、と罐づめを袋にいれながら教えた。ヤーホーじちちゃんが痛々したんですよ。すると男の児は、殆ど泣きそうに力を入れて、ちがうったら違うよ! と強情にその反対を主張するのである。
 手紙を貰って心痛をしている若い叔母が、愉快でない面持で、妙な小僧! と云った。いやに訳が分らないんだね。本当にね、どうしたんだろうと子供の母親も考えていたが、何かに思い当ったようなばつのわるい表情になり、目にとまらないほど顔を赧らめた。そして誰にともなく、余りいつも負けるのは支那の兵隊さんときめて遊んだりばっかりしているからなんだわ、きっと、と四つの子供心に植えこまれている偏見について説明した。

        婦人画家

 茶の間で、壁のところへ一枚の油絵をよせかけて、火鉢のところからそれを眺めながら、画中のドックに入っている船と後方の丘との距離が明瞭でないとか、遠くの海上の島がもう一寸物足りないとか素人評をやっていると、女ながらもそういう画材を勉強している友達が、考えると船なんてぼろいなあ、と百円の絵一つをさばきかねる婦人画家の生活を比較した。
 現在はまだ所謂有名になっていないでも、これはと目星をつけた男の画家の絵を、コレクションとして買っている人は決して無くはなかろう。あとで価が出るからと買うのだが、価が出るということには、現在の社会のくみ立てにしたがえば、それだけその画家の芸術が成長するだろうという卑俗ながらも期待がこめられている訳である。
 婦人洋画家として今日著名なひとは既に何人かある。その制作を系統だてて蒐集しているという人が果してあるだろうか。女の画家は、画壇で統領となれないから売れないと云われるが、画壇で統領になれないのは、現在の社会へ女が入ってゆくためには、門が限られているということの一つの反映でもある。画壇政治をぬいて考えて、或る婦人画家の芸術的な発展のあとに感興を覚えて、買い集めようとする人の尠い、殆ど皆無らしいことには何か私たちを考えさせるものがある。
 事情にくわしくないから間違っているかもしれないが、婦人画家は良人が画家
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