した。今思えば、その声も歌詞もキャバレーで唄われたようなものであったろう。更に思えば、当時父の持って来たレコードもどちらかと云えばごく通俗のものであったと考えられる。オペラのものやシムフォニーのまとまったものはなかったように思われる。
 程なく、ピアノの稽古がはじめられた。ヴァイオリンをやるにしろ、基本はピアノだというような話がされていた憶えがある。先生は久野久子さんであった。上野を出たばかりでまだ教えるのではないが、というようなところを特別にたのみ、家が三丁ほど離れた同じ本郷林町のお宅へ通った。やっぱり、ベビイ・オルガンで教則本の三分の一ほどやったのであった。手首を下げた弾きかたで弾くことを教った。そのうち或る晩、本郷切通しの右側にあった高野とか云う楽器店で、一台のピアノを見た。何台も茶色だの黒だののピアノがある間にはさまって立っていたそのピアノは父と一緒に店先で見たときはそれほどとも思わなかったのに、家へ運ばれて来て、天井の低い茶室づくりの六畳の座敷へ入れられたら、大きいし、黒光りで立派だし、二本の蝋燭たてにともった灯かげに燦く銀色の装飾やキイは素晴らしいし、十一ばかりであった私は夢中に亢奮して、夜なかまでありとあらゆる出鱈目を弾きつづけた。
 ピアノの稽古は女学校の二年の末ごろまで続いた。もっとつづくわけであったところ、久野さんが指にヒョーソーが出来て大変長く稽古が休まれた。その間に、規則的な稽古はいつの間にかすてられて、本をよむようになり、自分ではいろいろといじりながら、稽古はそれきりになってしまった。
 上野で初めて第九が演奏されたのと、久野さんがウィーンに行かれ、やがてそこで命をすてられたのとはどっちが先のことであったろうか。久野さんはおそらく私の生涯に只一人の音楽の先生として記憶される方であろうが、こちらがすこしものを考えるように成長して来た十八九歳の時分には、久野さんの気質やものの感じかたが何だか苦しくうけとられた。芸術家として燃焼する型が外向的であったからだろう。
 音楽と女の生活についての考えかたも一般に狭くあったと思う。久野さんに習っていて、のち上野のピアノ科に入り、ずっと首席であった一人の令嬢が、お婿さんをとるためにどうしても音楽をすてて学校をももう一年というところでやめなければならないということを、久野さん自身、残念だが仕方がないこととして
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