えた笑声を家中にひびかせた。
日暮方、男は又御龍の玄関の前に立った。せまい一つぼのたたきの上には見なれない男下駄がぬぎっぱなしになって居た。男はフッと自分がこの上なくいやに思って居る事を連想してプッとつばを吐いてあともどりをした。
「もう来るもんか、ウン女があやまって涙をこぼしたって来るもんか、売女奴! きっと来ないぞ、己も男だ」
男はかおをあかくして目をさました子供の様なたわいもない事を自分では真面目に考えて肩を怒らせて居た。
七日ほどの間男は女の家の前さえ通らなかった。けれ共、それ丈の間の日は必[#「必」に「(ママ)」の注記]して愉快な日ではなかった、すきのある様な男の心の前にはすぐこないだの夜の女の笑がおがういた。知らんぷりをされて居るのも気にかかった。
「ほんとうにそうだそうだ。己は蛇に見こまれた蛙なんだ、あの女の前には男の力なんかはない己なんだ、阿片をのみ始めたが自分の命の短かくなるのを知って居てもやめられないのと同じ事だ!」
特別に作られた女の、刺げきの多い言葉、様子、目ざしになれた男がたった一人ぽつんとして居ることはとても出来る事ではなかった。わけの分らない悶える心を抱えてこないだよりはずっと衰えた力のない青いかおをして女の家の格子をあけた。格子に手をかけてヒョッと見るといつもの笑をかお一っぱいにして女が立って居た。男は一寸手を引いたけれ共思いきった様にあけてたたきに立った。女はだまったまんま自分の部屋自分の城壁の中に入った。男もそのあとから入って後手に障子をしめながら片ひざはもう畳について居た。がっかりした様な男の様子を見てお龍はひやっこい声で、
「とうとうかえってきたのねえ、あんたは、家出をして又舞いもどった恋猫の様な風をしてサ」
と云って一寸男をこづいた。
それをどうのこうのと云うほど男には落ついた心がなかった。手の先をふるわせながら、
「一体マアお前は幾人男を勝手きままにして居るんだい?」
息づまる様な声で男は云った。
「幾人? 世の中の男はみんな私が勝手きままに出来るもんですわ、私は特別に生れた女です……」
お龍は平気なむしろおごそかな調子で云った。女のバサリと肩になげかけた髪から紫の糸遊が立ってその体を包んで居る様に男には見えた。
「ああほんとうに私は見こまれた蛙だ!」
男はいかにも力のない声でこう云った。女の目は勝利の嬉しさに夜の闇の中に光って居るダイヤモンドの様にキラメイて居た。
それから又男は一日に一度はキッと女の家の格子をあけた。一日中居る事も夜更けてかえる事もあった。けれ共女が男にさわる事をゆるしたのはそのつめたくて美くしい手の先だけであった。
若い男の血を目に見えない形に表れないところから吸いとって美くしさはますます女の体にまして来た。女のそばに近よる男は自分の体のやつれたのは知らないで段々美くしくなりまさる女を仰ぎ見て居た。
女は二十になった。
男は、
「私は、この頃まるで病んだ様になってしまった。大変やせた、自分でも気のつくほどだもの、私は日ましにやせながら日ましにお前のわきをはなれて居られなくなった」
うるんだ目つきをして斯う云って居た。
「私達の一番美くしい心ばかりを集めて私達の一番立派な血ばかりを集めてお前は日ましに美くしくなって行くんだネエ」
こんな事も云った。
「私はお前に一番好いところを捧げつくしてしまったんだから、キッともうじきに死んでし舞うだろう。私は心から御前を思ってたけれ共お前は私を自分の美くしくなる肥料につかったっきりなんだものネエ、見こまれたと知ってにげられなかったんだもの。私はお前の美くしいと云う事をあんまり見すぎてしまった、それで又私はあんまりお前からくらべると正直だったもの」
やせてめっきり衰えたまだ若い男は毎日毎日来ては女の手につかまって居た。
「私はもうじき近い内に死ぬと云う事を知って居る」
と云った。女はどんな時でもひややかに笑いながら男には手先だけほかゆるさないでつっついたり、小突いたりして居た。お龍はその時お女郎ぐもの、大きなのをかって居た。いつでも自分の指の間に巣を作らせたりくびのまわりを這わせたりして居た。その時もお龍は自分のひざの上を歩るかせて自分ではその来手来手をふさいではからかって居た。こっちに行こうとすると手にぶつかり後にもどろうとするとさえぎられるのでくもはヒラリととんで男の首に這った。それからスルスルと行くさきざきにむずかゆい感じを起させながら胸を這って袖口から出た。それを女がつかまえて自分のひざにのせた。
くもに這われて居る間男は又とないだろうと思われるほどの快い気持になって居た。
だまって目をつぶってクモに這われて居る男を見て女は笛の様な音をたてて笑った。
その日男はたまらないほどあまったるい気持になって家に帰った。そしてたたみの上にコロリと横になってニッコリといかにも嬉しそうに笑って眠に入った。
翌朝になっても男は笑ったまんまねて居たけれ共もうあったか味もない口もきかない小ばなの妙にそげたひやっこい肉のかたまりになって居た。「あの人が一番さきに私を美くしくするこやしになったんだ!」女はこう云っただけだった。
それからあとも男は幾人も幾人も格子を開けては特別に作られた女のそばによって居た。
男達の心を取り血をしぼって女は若やかにますますその肌は白く髪は黒く目はかがやいて来た。特別に作られた女を美くしくな[#「な」に「(ママ)」の注記]るために純な心を持った男は笑いながら幾人も幾人も死んで行った。男が一人死ぬ毎に女の美は一段進んで男の命と云う貴いものでつくりあげられた美くしさは銀の光りで月をつなぎ合わせた様なかがやかしさと気のボーッとなるほどのかぐわしい香りをもって居た。
美くしくなりながら女は年をとって行った。
長い間数知れないほどの男を気ままにもちあつかって居たけれども女はまだ処女であった、処女で居られる力を特別に作られた女はもって居た。
うす暗いローソクの下で地獄の絵にせなかを向けて或る晩女は自分の体のすっかりうつる鏡に立って居た。頬は丸い唇も赤くて髪も黒いけれども女は目のまわりにあるうす黒いかげと頬にたった一つ茶色のシミの出来たのを見つけた。
「私の美くしさの下り坂になったしるしだ」
すぐ女は斯う思った。もう今から四五年あとには自分もあたり前の女がする様な事をしなくっちゃあなるまいと思った。
自分で特別に作られた女だと信じて居る御龍はあたり前の女のする事をしなければならないと云う事は死ぬよりもいやな事だった。
も一度鏡の面をジッと見つめた。黒いかげ茶色のしみはたしかにあった。
自分のためにぎせいになった男を見る時にもらす様な落ついたつめたい笑を歯の間からもらした。スルスルと帯をとき着衣をぬぎお女郎ぐもの一っぱいに手をひろげた長襦袢一枚になった。鏡を台からはずして畳に置いた。女は笑いながらその上に座った。座った足、手、頭はみんな下のかがみにそのまんまうつって居る。かがみにうつる自分の目を女は見つめて物狂おしい高笑いをした。そして右の手をツとふところに入れてまっしろなやわらかい胸の中ににぎって居たお女郎ぐもをはなした。
女は目をパッとひらいてまっさおな笑をもらして鏡の中の自分を見つめた。胸の中の御女郎ぐもはクルクルクルとすばしっこく這い廻った。胸の御女郎ぐもがジッとしたかと思うと特別に作られた女の体は笑ったまんま見つめたまんまコトリと音をたてて鏡の上にのめった。笑ったまんま女は鏡の中の自分の瞳を見つめて居る。ローソクはケラケラケラと笑いながら黄色な焔をあげて居る。
お女郎グモはソロソロと胸から首をつたわって女の目に上った。そしてパッと見ひらいたまつげとまつげとの間に銀の様な糸をはり始めた。キラキラとひかるこまかいあみの中から瑪瑙の様な目は鏡の中のあみの中にある目と見合わせて口辺にはまっさおの笑をたたえて居る。特別に作られた女の不思議な姿を朝の光はいっぱいにさして居た。
目の辺に黒いかげはなく頬に茶色のしみもない特別に作られた女はローソクのたわむれを知る事は出来なかった。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年10月14日作成
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