る眼に宙を見て形のない或るものに誓う様にお龍は云った。ホット息をついてポンとひざの本[#「本」に「(ママ)」の注記]に本をなげた時にはもう障子の紙はうす黒くなって居た。午すぎすぐから今まで息もつかずによんで居た自分の真面目さと新らしい気持になったうれしさにはれやかな高笑をした。それと一緒にうすくらがりの部屋のわきからはじき出された様にヒラッと影をのこして体をかくしたもののあるのをお龍は見つけた。首すじの細さでその影の持主をさとった娘は何か心にひびいた事があるらしくそれよりももう一層高い笑い声をたてた。
恐ろしくすんだ声はびっくりするほど遠くひびいた。自分の笑い声の消えて行くのをジッとききながらその声をきいて身ぶるいをする男のあるのを思って声はたてないうす笑をもらした。
お龍は立ち上って着物を着更えた、今までよりは一層はでなはっきりした着物と帯をつけお化粧もした顔と姿とは倍も倍も美くしくなった。鏡の中にほほ笑んで居る自分の姿を一寸ふりかえってお龍はスルスルと廊下に出て足音もさせずにさきをすかしすかし店のそとの倉前に行った。つめたい石段に頭をかかえて深い深いうかむことのない海の底にひきこまれた様な重い気持で思い込んで居た若い男は自分の傍にお龍の立って居るのなんかは知るだけの余裕がなかった、「主人の娘だ、あんなひやっこい様子をして居るから何かしたらきっとおっぴらにしてしまうにきまってる、それにまだ年も若いんだし――」こんな事はお龍を気を狂いそうにまで思ってる若い男の心をなやました。
男は自分がこんな苦しい思をして居るより、一思いにこの家を出てしまおうとも思った。あの美くしさを一目でも見ずにすごすと云う事はとうてい自分のこらえられそうにもない事であった。男の熱しきった心は、見すかすように高笑いされた事やら□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]見て居た娘の燃えて居た事やらを思ってジッとして居られないほど大声で叫びたいほど波打って居た。
頭は火の様にほてって体はブルブル身ぶるいの出るのをジッとこらえて男は立ち上る拍子にわきに何の音もさせずに立って居たお龍を見た。男は前よりも一層かおを赤くしすぐ死人よりも青いかおになってうるんでふるえる目でジッと娘のかおを見つめた。娘もその若い人にはたえられないほどのみ力をもった目をむけて男の瞳のそこをすかし見て居た。二人の間に時はきわめて早く立って行った、男は力のぬけた様にうつむいた。女はまだそのうつむいた瞳をおって行った。お龍はかちほこった様に眉をかるく動かしてダラリと下げて居る男の両手を自分のひやっこい雌へびの肌ざわりの様な手の中に入れた。男の体は急にふるえ出した。さわぎ立てる血が体中を走りまわるのや髪の毛までまっかになった様な姿を女はかお色一つかえず髪一本ゆるがせないで見る事が出来た。男はすじがぬけた様に手をもたれたまんまもとの石段にくずおれてしまった。
「御はなしなさって――」
かすかなとぎれとぎれの男の声に耳もかさないで御龍はますます手をかたくにぎりしめた。男の目から涙のこぼれ出て居るのを見つけて、
「蛇に見こまれたと思ってればいい……」
さえた低い声で女はささやいた。
「どうぞ――御なぶりなさらないで……」
男は前よりも一層力のない声で□[#「□」に「(一字不明)」の注記]った。
「はなさない、どんな事があっても、二人ともが骨ばっかりになった時でも――」
お龍は斯う云ったまんま動こうとも手をはなそうともしなかった。
はげしく動く感情、涙をこらえるために情ないほどかたくしまった頬の筋、自分を恐れて手をもぎはなすほどの力さえない男の気持を、女はかがみの中にうつす様に自分の心にうつし見てまっしろに光る倉の扉にほほ笑みをなげた。
赤坊があきのきたおもちゃをポンとほうり出す調子にお龍は自分の手から男の手をはなした。白い二本の手は又先の様にだらりと両わきに下った、男はうつむいた目を上げてチラッと女を見あげて又食入った様に下に向いた目を動かさなかった。お龍はジッとうす闇の中にうく男のかおを見た。白い細い指が顔をおさえて指と指とのすき間にかすかな悲しみの音のもれてくるのを見て女はするりとまぼろしの消える様に行ってしまった。男は荷物をもちあつかう様に石段の上に自分の体をなげて長い間ほんとうに長い間今のは夢ではあるまいか? いたずらをされたんじゃああるまいか? どうしてあんな気持になって呉れただろう? と思って、心も体もとけて行きそうなうれしさと限りない恐れとかなしみとよろこびにふるえて居た。
それからうす明りの倉前に立つ二人の若い姿を見るものは着物をしまいに来た女中の一人二人ではなかった。傘の下に二つのかおが並んだ絵の倉の扉に爪で書いてあるのもお龍は知って居た。日毎に男の瞳はぬれてうる
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