ことするにはまだ私はあんまり若い、やめようもう、あんまり先が見えすいて居ていやだから……」
男はかるく震えながらこんな事を云った。
女はいかにも心からの様に笑って立ち上った。その襦袢の上にお召のどてらを着て伊達をグルグル巻にして机の上に頬杖をついたお龍の様子をその背景になって居る地獄の絵と見くらべて男はそばに居るのが恐ろしいほど美くしいと思って見た。御龍のなめらかなひやっこいきめの間から段々自分の命を短くする毒気が立って居るらしく思われそのまっくらな森の様な気のする髪の中には蛇が沢山住んで居やしまいかと男は思った。
「私は御前を知らない方がきっと幸福だったろうネ又お前だってそうだったかも知れない……」
「幸福だの不幸だのってそんな事わたしゃ考えてませんわ。私は天からこうときまって生れて来たんだと思ってますもの、私は自分の力を信じてるんですもの……」
「アアほんとうにお前はけしの花の様な女だ」
「私自身でもそう生れついて来たのをよろこんでますわ」
女は男の心の中に自分の毒を吹き込む様にホッと深い息を吐いた。
二人の間に長い沈黙がつづいた。二人の心ははなればなれに手ん手に勝手なことを考えて居た。
「私はもう帰る」
男は思い出した様に立ち上って上《うわ》んまえをひっぱった。
「そう――」
女は別にとめる様子もせず玄関まで男の後について行った。
「又今度」
小さな声で男が云ったのに女はただ青白い笑を投げただけだった。
その笑が男には忘られないものの一つだった。しずかな中に女は体を存分にされないで男を自由にすることの出来る自分の力に謝してうす笑をした。いざりよって丸い手鏡をとって自分のかおをのぞいた。ふっくらした丸みをもった頬と特別な美くしさと輝きをもった眼、まっかな唇に通った鼻、顔全体にみなぎって居る何とも云えないうすら寒い気持――そう云うものを女は女自身に感じて、
「私は若い――そして人より以上の力を神から授かって居る。私は男をどんな身分の高い人でも何でも、男ならば自分のどれいにする力を持って居る」
手かがみをひざにふせながらよろこびにふるえる声で斯うささやいた。
「私は若いんだ――」くりかえして又つぶやいて手をのばしてあかりをけしてしまった。日の高くなるまで女はすき通る様なかおをしてねて居た。目ざめるとすぐ枕元の地獄の絵を見て女はねむたげな様子もなくさ
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング