面に対しては、最後まで何もなし得なかったのだ。悲観にとり乱した多計代の姿は手紙のなかに伝えられていず、そこには、田舎からかえって来ると、清浄無垢な保に対面するには心の準備がいると云ってその夜は寝室にこもっていて、翌朝紋服にきかけて保の遺骸の安置された室へ出て行った多計代の様子が語られていた。この場合清浄無垢とは、保の死に恋愛がかかわっていないという表面のあらわれについて云われているのであった。
仕舞の一枚を素子に渡してしまうと、朝子は沈鬱きわまる相貌で、窓の前まで枝垂れて来ている中庭の楓の葉の繁りに凝っと目をやった。古びた黄っぽい建物の翼に射している斜光が楓の葉の繁みを裏から透していて、窓べりはそとの濃い緑の反射で空気まで染められているようである。読み終って素子も口をきかない。そうやって暫くいた。
どこか遠くにきこえていた手風琴《ガルモシュカ》が、今度は公園のすぐ近いところで鳴り出した。それに合わせて、非常に甲高な、野原や山なら何処までも徹りそうな男の声が旋律をひっぱって急に調子の迅まる民謡風な歌のひとくさりを謡うと、一斉に手ばたきが入って、ヘイ! 何とか何とかと活溌な合唱が続いた
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