等に人間以下の条件におかれているというにすぎない。
 男女が平等ということは、同じ労働に対し同じ賃金ということを当然約束しているけれども、これまでの日本の実状では、同じ職場で同じ部門に働いている男女が必ずしも同じ程度の腕をもっているとは云えない。女は、これまでじきやめてしまうもの、やすいから男の代りに使うものとしてつかわれて来たのだから。きょうの若い勤労婦人は、自分たちの人間らしい生活という考えのなかに、だれでも、仕事の上での発展の希望を加えていると思う。十年一日のような、見とおしのない、あてがい仕事を苦しく思っている。では、その希望を実現するために、事務技術の向上、または専門関係の知識を深めるために、講習をうけるとして、さて、時間の関係はどうだろう。勤労婦人が、家庭の女の用事[#「女の用事」に傍点]と二重に働らかなければならない困難はあらゆる人が経験している。夜は不用心で、こわくておそくなれない。勤労時間を一部さいて、そういう専門の講習を与えるように、婦人職員、従業員の価値は重んじられていない。そうだとすれば、同一労働同一賃銀ということは、勤労婦人自身にとって自信のあるよりどころを持っていないことになる。そのために、労働基準法で、母性保護の諸条件が多くなることで、雇主は、一人当り費用の多くなる婦人を使うより生理休暇のいらない、深夜業の出来る男を使った方がいいと、逆に勤労婦人の生活安定をおびやかすことにもなって来るのである。
 勤労人民にとって、時間の内容が、どう詰められているか、ということは、ほんとうに深刻重大なことである。働くものにとって「時間は人間成長の箱である」けれども、働かせるものにとっては「時は金なり」という矛盾した勤労の関係が存在していることが、今日のわたしたちの悲劇なのである。
 生産工場でない場所では、より多い一時間の労働の生産が、企業者にどれだけの利潤を与えるかということは、見えていない。ただそこには非能率的に組織された、面倒な書類とハンコのぐるぐるまわしがあって、人々を机にしばりつけている。一日に何時間、書類とハンコは生きている若い命を机にしばりつけているのだろうか。能率よく民主化された執務の方法ということは、人間らしさをとりもどしてゆくための真面目な課題となって来ているのである。
[#地付き]〔一九四七年六月〕



底本:「宮本百合子全集 
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング