すると誰かに肩を叩かれて、喫驚《びっくり》しながら振返ると、其処には思い掛けず、友子さんが立っています。
「まあ友子さん」
「あなた、随分此処は暖いのね……だけれど貴女お一人? 芳子さんはどうなすったの」
「芳子さん? あっちだわ」
「何故貴女一人放って行らしったんでしょう、……私あの方は……此は貴女だけに云うのよ政子さん……余り親切じゃあないと思うことよ、私嫌だわ」
 政子さんは、少し驚いて友子さんの顔を眺めました。
 その頃大変|流行《はや》った、前髪を切下げた束髪にして、真赤な珊瑚の大きな簪を差した友子さんは、紅をつけた唇を曲げながら、
「貴女はどうお思いになって?」
と、政子さんの返事を求めました。
 子供の時から、姉妹のように暮している政子さんと芳子さんとは、お互に勿論、友子さんよりはよく、深く知り合っている筈なのです。芳子さんが自分に親切で、よい仲間であることを政子さんは知って居ります。今芳子さんが自分と一緒にいないのは、彼女が当番で、次の理科の時間に使う標本を、先生のお手伝で揃えているからなのです。「芳子さんは親切な好い方よ」と政子さんは云うべきなのだと云う事は解っていましたが、友子さんが、大きな二つの眼で自分を凝《じっ》と見詰めたまま、「真個に貴女だってそうお思いに成るでしょう」とそのようにしているのを見ると、政子さんはつい妙に気の弱い、思った儘を云い切れない気分に成ってしまいました。
「そうねえ……私知らないわ」
 政子さんは、少し耳朶を赤くしました。
「それは遠慮だわ政子さん、一緒のお家にいて知らないなんて、そんな事は無くってよ。あの方は、小学校を優等でお出になったんですってね、そう? 津田さんが答辞をお読みに成ったって云っていらしったけれども、それは真個なの」
「え真個。芳子さんは真個にお出来になるのよ」
「だからあんなに御威張りになるの、おおいやだホホホホ」
 友子さんは、政子さんがもう一遍喫驚して思わず目を大きくしたほど、いやな笑い方をしました。
「あの方は、私、級中で一番嫌いだわ、此の間もね、お裁縫室の傍にね、ホラ南天の木があるでしょう、彼処で種々お話をしていた時、私が何心なく、芳子さんにね、貴女は何故此の学校へお入りに成ったのって伺ったのよ。そうしたらね、あの方ったら」
 友子さんは、チラリと四辺《あたり》を見廻しました。
「偉い学者になりたいからなんですって! 学者ですって政子さん、ホホホホだから私ね、女の学者なんてあるものですか、可笑しいわ、って云って上げたのよ。そうしたら芳子さんたら急に真面目くさって、其じゃあ貴女はって仰云るの」
「まあ、貴女何と仰云ったの」
「私? 大きな声で云って上げたわ、私はね、此の学校は好い着物を着て来ても叱られないからよ、って!」
「そうしたら?」
「芳子さんたらすっかり怒っておしまいになった事よ。あの方は全く変人なのね、学校は、着物を見せに来る処じゃあない、勉強する所です、って」
 政子さんは、芳子さんの方が正しいと思いました。真個に学校は、呉服屋の広告に使われる処ではございません。けれども、皆より二つ年が上で、お家が大層なお金持で、いつも俥夫が二人がかりで送り迎えをする友子さんは、級中で、一番着物の好きな人でした。
「うちの父様は、日本で沢山ないほどのお金持なのだから私は大人位お金を使ったって構わないのよ」と云う友子さんは人間の生きている間、お金で買える贅沢をするのが、何よりの楽しみだろうと思っていたのです。それ故、友子さんの考え方から云えば、級中で一等立派な着物を着た者は、心も一等立派なのだと云う事になってしまうのです。友子さんは真個にそう云う尊い立派な心を持っているのでしょうか。
「芳子さんは、それだから私嫌い。貴女にだってきっと親切ではないに定っているわ。心の中では、きっと貴女を見下げて、いらっしゃるのよ、貴女真個に仰云いな、彼の方は、貴女に親切じゃあないでしょう、え、政子さん」
「親切でないって……普通だわ」
「そうかしら、」
 友子さんは、長い絽の着物の袂を、紫色の袴の上に揃えながら、疑しそうな顔をしました。
「何か貴女が辛いとお思いになることはなくって? 芳子さんが叱られないのに、貴女だけ叱られるような事はない? 芳子さんは、真個の子だけれども、貴女はそうじゃあないんですもの……私お可哀そうだと思うわ、真個に。うちの御母様のお母様は継母だったんですって、今でも辛かったってよく仰云るわ、だから私御同情するのよ」
 こんなに云われると、只さえ淋しい、悲しい心持になっている政子さんは、堪らない心持になってしまいました。
 芳子さんが不親切なのだと、はっきり思うのでもありませんし、自分がどう云う辛い目に会ったと云うのでもありません。けれども、只気持だけで、
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