よろこびでピチピチしている子供ら、新しい世代として成長しつつある子供らの新鮮で、こだわりなくて、そしてよその国のどこにもない社会的な保護のもとに小さな人々[#「小さな人々」に傍点]として生きつつある姿は、わたしを感動させずにおかなかった。国内戦や飢饉時代ののちに、夫婦がそうして安心して子供を産み、よろこびをもって育ててゆくことのできる大人のよろこびの揺ぎない深さも、しんから共感できた。すべてそれらのよろこびは、ソヴェト市民の一人一人が一九一七年以来、たえまないめいめいのたたかいを通じて自分たちのものとして築いた社会でつくり出された事情なのである。「子供・子供・子供のモスクワ」はそういう意味で、単にモスクワの物語ではない。子供を愛す、ということは、具体的なことで、心もちばかりの問題ではなく社会的行為の課題であることが実感される。一九二八年の春の終りに書いたモスクワ印象記では、まだ階級としてのプロレタリアートの勝利の意味を把握していなかったわたしが三〇年には、明瞭にその観点に立って書いていることも、二篇を対比してみて、興味がある。
「ロンドン一九二九年」も一九二九年の夏のロンドンで、十月に
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