アメリカに経済恐慌がおこる直前のロンドンであった。そのころ、イギリスの失業者数は三百万人から四百万人もあった。高度に発達した資本主義国は、そのころ急速に資本の独占化にすすんで、いわゆる合理化の結果、どこでも慢性的な大衆失業にくるしんでいた。イギリスでマクドナルドの労働党が多数をしめて労働党内閣となったのも、生活を打開しようとする大衆の要望のあらわれであった。しかし、ごく表面しか見ることのできない一人の婦人旅行者であるわたしの眼に映った一九二九年のロンドンは、マクドナルドの労働党ではどうにも救いのない状態だった。ロンドンの東《イースト》と西《ウエスト》にある階級のちがい、生活のちがいが、同じイギリス人とよばれる人々の人生をはっきり二分していて、まったく別のものにしている現実をまざまざと目撃して、わたしは深いショックをうけた。ジャック・ロンドンが「奈落の人々」というルポルタージュを書いてロンドンの東《イースト》の恐ろしい生活の細目を世界の前にひらいてみせた。イーストは一九二九年にもやっぱりイーストだった。そこからぬけ出しようのないばかりか、悪化してゆく貧困にしばりつけられた人々の生きている地区だった。尨大な数の不幸な人々と、顔色のわるい、骨格のよわいその子供たちとが、自分たちの運命をきりひらくために勇奮心をふるい起そうともしないで、波止場の波に浮ぶ藁しべのようにくさりつつ生きている光景は、どんな眠たい精神の目も、さまさせずにおかないものだった。ロンドンの二ヵ月ちかい滞在が、わたしを回心しようのない折衷主義ぎらいにした。それは、偽善的である以外にありようのない本質のものであることを、わたしに見せた。
「ワルシャワのメーデー」「スモーリヌイに翻る赤旗」そのほかは、かえって来てから一九三一年にかかれている。「ピムキン、でかした!」は、その年のはじめに日本プロレタリア作家同盟へ参加してから、農民文学のための雑誌『農民の旗』へかいたものだと思う。小説の形をとっているけれども、題材は、ソヴェトの新聞にでていた農村通信の記事だったと記憶する。だから現実に或るコルホーズ(集団農場)に起ったエピソードであった。こんにちよみかえすと、小説としてはごく単純だけれども、それぞれの農村でコルホーズがどんな過程で組織されて行ったかということが、この一つの例によってわりあいによくわかる。その点が、い
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