あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木片《こぱ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]をつけていた。
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 この第二巻には、わたしとしてほんとうに思いがけない作品がおさめられた。それは二百枚ばかりの小説「古き小画」が見つかったことである。
 一九二二年の春のころ、わたしは青山の石屋の横丁をはいった横通りの竹垣のある平べったいトタン屋根の家に住んでいた。ある日、その家の古びた客間へスカンジナヴィア文学の翻訳家である宮原晃一郎さんが訪ねて来られた。そして、北海道の小樽新聞へつづきものの小説を書かないかとすすめられた。
 新聞の小説というものには、一定の通念がある。一回ごとにヤマがなければいけないとか、文章の上に一種のひっぱる力が要求されるとか。わたしにはとてもそういう条件がみたせないと思った。それで、そのときは、ことわってお貰いするように宮原さんにたのんだ。新聞に書いてみたいと思う題材もなかった。その時分、わたしは、「伸子」の中に佃としてかかれているひとと生活していて、夫婦というもの毎日の生きかたの目的のわからない空虚さに激しく苦しみもだえていた。そのひととはなれていられず、それならばと云ってその顔を見ていると分別を失って苦しさにせき上げて来るような状態だった。新聞小説をかくように気がまとまっていなくもあった。
 ところが、宮原晃一郎さんは、わたしがことわったにもかかわらず、再三、小樽新聞にかくことをすすめられた。何でもかまわない、書きたいものを、書けるように書いていいから、とすすめられた。わたしも、それまでをことわる心持がなくていたとき、不図したはずみで、一冊のペルシア美術に関する本を見る機会があった。ライプツィッヒで出版されたその本には、古代ペルシアの美しいタイルの色刷りや小画(ミニェチュア)の原色版がどっさり入っていた。そのミニェチュアの央に、特に色彩の見事な数枚があって、それは英雄ルスタムとその息子スーラーブの物語を描いたものだった。
 ミニェチュアの解説はごく簡単であったから、わたしはただその絵の印象やルスタムという伝説の英雄の名を憶えただけであった。
 暫くして、ペルシア文学史をよむ折があった。そしたら、その中にまたルスタムが出て来た。息子のスーラーブの名も。ルスタムとスーラーブの物語は昔のペルシア人が、云いつたえ語りつたえ、ミニェチュアにして描きつたえた物語だったことがわかり、同時に、その昔譚のあらましも知ることが出来た。
 わたしは、小樽新聞の小説のことを思い出した。自分の生活や心の内の風浪とかかわりのないルスタムの物語ならかえって書けそうに思えて来た。その気持はだんだんはっきりして来て、やがて、どうしても勇気を出してこの物語は書き終せなければならないと決心するようになった。手に入るだけの材料からノートをつくって、それをもってその夏福井県の田舎の村へ行った。わたしが一緒に暮していたひとの故郷がその村であった。農家にふさわしくない金ぴかの大仏壇が納められていた。七十歳だった老人は白髯をしごきながら炉ばたで三人の息子と気むずかしく家事上の話をして、大きい音をたてて煙管をはたき、せきばらいしながら仏壇の前へ来ると、そこに畳んである肩衣(かたぎぬ)をちょいとはおって、南無、南無、南無と仏壇をおがんだ。兄の嫁にあたるひとは、おはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]をつけていた。無口なおとなしい人で、いつもはだし[#「はだし」に傍点]で内井戸のある石じきの台所で働いたり、畑で働いたりしていた。
 そういう家の屋根裏が物置きになっていた。板じきの真中に四畳たたみが置いてある。わたしは、そこへ小机をおいて、ルスタムの物語を書きはじめた。
 遠くに白山山脈の見えるその村は、水田ばかりであったから、七、八月のむし暑さは実にひどかった。涼しいはずの茅屋根の下でも、吹きとおす風がないのだから、汗ふき手拭がじきぬれた。老人は、毎日毎日汗をふきながら机に向っているわたしを可哀そうに思って、ある日、河原から幾背負いもの青葦を苅って来て、それを二階の窓の下につき出た木片《こば》ぶきのひさしにのせてくれた。こうすれば反射がよわくなっていくらか凌ぎよいものだ、と云って。
 厚くしかれた河原の青葦は、むんむんと水気を蒸発させ、葦が乾いて段々枯れてゆくきつい香りを放散させ、わたしは目がくらみそうだった。それでも八月の二十日すぎて東京へかえるとき「古き小画」は出来あがった。
「古き小画」は宮原晃一郎氏を通じて小樽新聞にのせられた。そのきりぬきをこしらえてもっていた。何年の間、わたしはそのきりぬきをもっていただろう。それはいつか
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