あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)犇《ひし》めいて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)狐疑[#「狐疑」は底本では「孤疑」]
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「古き小画」の新聞切抜きが見つかって、この集に入れられたのは思いがけないことだった。この、ペルシャの伝説から取材した小説は一九二三年の夏じゅうかかって執筆され、書き上ってから北海道の新聞にのせられた。スカンジナヴィア文学の専攻家でブランデスやハムスンを日本に紹介した宮原晃一郎氏が、故郷である北海道の新聞へ何か作品をということで書き出したものだった。このたび思いがけなく新聞切抜きを発見することができたのも、宮原氏の未亡人の協力によった。
新聞に連載した小説ではあるが、「古き小画」はまるで新聞小説ではない。古代ペルシアの英雄ルスタムとその息子との悲劇の、謂わば古風なものがたりであり、文体もそういう古風な絵の趣を保とうとされている。そして、作品の人物にあらわされている風俗のあらましは、古代のミニェチュアや文献をしらべてかかれた。
作者の作品の全系列に置いて、この作品を眺めると、作者の生活の時期との関係で、或る特徴をもっている。「古き小画」の作者は、この作品のかかれた時代、結婚後五年で、その結婚生活の破れる最後の段階に迫っていた。結婚生活に入って五年の間、一つもまとまった作品のないことを苦痛に感じ、不安に感じはじめていた作者は、一九二三年の夏には本気ですこし長いものをかきたかった。福井県のひどくむし暑い田圃の中の農家の屋根うらの二階で、板の間にしかれた三畳のたたみの上で、毎日少しずつ書いて行った。自分の結婚生活の破綻は益々切迫しているとき、作者が、身辺に取材しないで、現実から翔びはなれて、「古き小画」のような題材をとらえて書いたということには、その当時では自覚されていなかった二つの意味が見出される。一つは、作者の日々の感情に犇《ひし》めいているさまざまの苦しさ、矛盾葛藤を、二十五歳の作者の力量では、人間的にも把掴しきれず、まして文学の作品としてそれを客観的に再現することは不可能であった。その結果、古代ペルシアの物語に飛躍して取材された。作者の自覚なしに行われたこういう題材の飛躍的な選択は、一方から見れば現実からの逃避であった。けれども、また他の一方から観察すると、そこに微妙な心理の契機がひそんでもいる。自分をどう解放していいのか分らない女の思い。身もだえする若い妻としての思いに屈して何年もすごして来ていた作者が、その心情の昏迷に飽き疲れて自分という始末のつかないものの身辺から遠くはなれてそれを眺めることができる題材。観察し、描くことのできる何かをつかまえたい本能的な欲望が作用していた。今から考えれば、その欲望は、作者が感情錯乱の中からそうとは自覚しないで求めた一つの客観性、客観的態度への転換の要求であったと思う。作者は一面では現実逃避して「古き小画」に没頭したのであったが、三ヵ月にあまるこの仕事への没頭――調べたり、ノートしたり、書いたりしてゆく過程で循環してつきない自家中毒をおこしていた精神活動の上に知らず知らず、やや健全な客観の習慣をとりもどすことが出来たのであった。翌年の秋から「伸子」が執筆されはじめた。その前提となって、はげしい心の病気からの立ち上りが示されている作品であった。
「古き小画」では、素朴な古代人の感情、行動、近東の絵画的風俗などに少なからず作者の感興がよせられている。エクゾチシズムが濃い。しかしテーマは、古代ペルシアの王と諸公(英雄たち)の運命を支配していた封建的な関係。同じ社会的な条件で、その愛も全うされなかった男女、その間に生れた雄々しい若者。最後のクライマックスで、封建社会での王は最も頼みにしているルスタムの哀訴さえ自身の権勢を安全にするためには冷笑して拒んだ非人間らしさを描き出している。
「渋谷家の始祖」は一九一九年のはじめにニューヨークで書かれた。二十一歳になった作者が、めずらしく病的で陰惨な一人の男である主人公の一生を追究している。描写のほとんどない、ひた押しの書きぶりにも特徴がある。
ニューヨークのようなところに生活しているとき、若い作者がなぜその人として珍しいほど暗い題材をそれ自身が一つの異常である書きぶりで書いたのだったろうか。時を経た今考えてみると、この「渋谷家の始祖」のモティーヴはきわめて心理的だったと思われる。一九一八年の十二月ごろから、作者はニューヨークで、のちに結婚したペルシア語の専門家であるひとと知り合った。結婚にまで進んだ恋愛の初期に、作者が「渋谷家の始祖」のような題材に着目した点が注意をひく。その当時、作者が全然自覚していなかった心理的な
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