るすべての文芸評論を通じて、一つのことが改めて感じられる。それは、文学はもとより理論ばかりの上に開花するものではないけれども、わたしたちが今日から明日へと生活の真実と文学の良心とを発展させてゆくためには、どんなに世界歴史の進行に即する正しい認識がなければならないかということである。すべてのファシズム文化理論、精神総動員的文学論の提唱は、どれ一つとしていわゆる文学論の形をとらずにあらわれたものはなかった。そして、もっとも注目すべきことは、ファシズムへの精神総動員文学論の、どれをとってみても、その議論のどこかには、当時の文学を客観した場合に見出される欠陥、市民としての判断にうつる文学者生活の弱体な点への批判がふくまれていたことである。だから、ひとつひとつ切りはなしていわれていることだけについてみれば、みんな何かの角度で当時の狭くるしくて、職人風な「文壇」の否定であった。せまくるしい文壇文学・私小説の枠をやぶって発展したいという文学者自身の要求にそくして云われているかのようにみえるところさえあった。そのことはまた、大衆の生活と全く遊離してしまっている「文士」の生活、「文学」の内容などにいつも
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