第十三回大会をバルセロナに(一九三五年五月)第十四回大会をブェノスアイレスに(一九三六年)第十五回大会をパリ(一九三七年)で開き、ますますはっきり世界の文学者がファシズムに反対して、ヒューマニズムと平和と文化の守りのためにたたかおうとする意志を明らかにして来ていた。
ナチスから追われて国外に亡命したトーマス・マンの全家族、フォイヒトワンガー、ルドリヒ・レーン、エルンスト・トルラーなどは、それぞれ国外で反ファシズムと世界文化擁護のための活動をしていた。(「国際反ファシズム文化運動」フランス篇―新村猛、ドイツ篇―和田洋一)
けれども日本の一九三七年はメーデーを正式に禁止し、蘆溝橋事件をきっかけに中国への侵略戦争が拡大されつつあった。日独伊防共協定が調印されて、国民精神総動員中央連盟が結成された。ブェノスアイレスの第十四回国際ペンクラブ大会へ出席した島崎藤村が、この大会の世界ファシズムに反対する決議や世界平和と文化を守る決議に当惑して、日本の文学者として何一つ責任ある発言をさけてかえってきたことは、当時の日本の状態をあからさまに語っている。こういう有様であったから小松清が、第一回文化擁護国際作家大会の議事録を翻訳紹介して日本にも平和と文化を守る広い人民戦線運動をおこそうとしても、なんのまとまった運動にもならず、舟橋聖一、豊田三郎などの人々によって「能動精神」とか「行動主義の文学」とかが提唱されたにとどまった。
この時代、日本の反ファシズム運動が結実しなかったのには、根本的な理由があった。それは、一九三二年以後に日本のプロレタリア文学運動がひどい弾圧をこうむってから、当時の文化人・文学者の中には文学の階級的な本質――この基礎の上にこそ現実の反ファシズム運動と平和と文化の守りはたつのであるが――この社会的良心の土台石になるところを回避する傾向が一般的に強くあった。ファシズムそのものが全く帝国主義の政治的現象であるのだから、それに対する反ファシズムの動きは自然その犠牲とされることをこばむ、より多数の人民の意志として政治的な性質をおびないわけにはゆかない。権力は日本の「能動精神者」たちを政治性・階級性にふれればすなわち治安維持法でと巧みにおびやかしたし、同時に「能動精神者」たちは、当局のそのおどかしをなにかの楯として、自分たちと旧プロレタリア文学運動に属していた人々との間に
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング